シンガポール・スリング

・・・・・

―――彼女が河本未希子。


ずぶ濡れの女性と河本未希子が同一人物だと知った時、俄然このゲームに興味が湧いてきた。父親がセッティングしたと思っていた今日のランチは祖母――ナイナイによって計画されたものだと知り、前回までの取引先やどこかの令嬢などではない理由が分かった。

つまり彼女は祖母のお気に入りだということだ。だとすると、あの出会いは仕組まれていたのだろうか。その割にはスコールにあたってずぶ濡れになっていたりと抜けているところもある。もし、ずぶ濡れになってあんな姿までさらけ出すのも計算済みということなら、かなりの策士だ。

見る限り河本未希子は心から楽しそうに祖母と話していて、自分に取り入ろうとしている様子は見当たらない。これが演技ならかなりの演技派女優だと言わざる負えない。というより、さっきの挨拶以来、彼女はこちらに全く興味がないとでもいうように目すら合わせようともしなかった。レンの知る女達は媚びを売るように微笑んできたり、腕に手をかけてきたりとあった瞬間から狙ってきているのがわかるが、彼女は・・・・河本未希子は・・・・どちらかと言うと自分を避けている。
そう思うと、レンはなんだかおもしろく無く感じて、頬杖をついたまま、彼女をじっくり観察し始めた。

彼女は小鹿のような眼をキラキラさせながら、表情豊かに大きく見開いたり、首を傾げたり、唇を尖らせたりと忙しい。今は祖母とお土産の話をしているようだ。

「カフェのみんなに何か買って帰らないと」

「シンガポールはTWGとかお茶が有名だけど、未希子さん、コーヒー派だものね。あそこのマカロンも有名なのよ。でも潰れちゃったら嫌だものね。じゃあ、やっぱりクッキーとかかしら」

「まぁ、最後の手段としては空港があるので、大丈夫です」

「レン。何かアイデアはない?」

祖母は何とかレンを会話にいれようとしている。

「すみません。いつも秘書にお願いしているので、何がいいのか見当もつきません。好みもあるでしょうし」

もぅ!全然役に立たないんだから。
優美は呆れ顔で、仕事ばかりで嫌になっちゃうわよねと未希子に同意を求めた。未希子はちらっとレンの方を見て返事に困っているようだった。レンは未希子がやっとこちらの方を向いてくれたので、このチャンスを逃さないように話を続けた。

「自分へのお土産はどうするんですか」

「え・・・?」

「もしかして、あのジャケット?」

「?!」

一瞬にして未希子の顔が真っ赤になり、その素朴な反応が可笑しくて、レンは思わず声を出して笑った。

「レンっっ!!変なこと言わないの!・・・あぁ・・・ごめんなさいね。本当にごめんなさい、未希子さん。無視しちゃっていいのよ」

「いぇ・・・・私の方こそすみません」

「どうしてあなたが謝るの?レンが失礼を言ったのに」

「ゎ、私が・・・悪いんです。・・・・ぁ、あの・・・・ジャケットはフロントデスクにお願いしてクリーニングに出しました。明日の朝にはフロントデスクに届くとのことですので・・・その節は本当にご迷惑をおかけしました」

祖母がそわそわしているのを見て、レンはにっこり笑って取り繕った。

「私の方こそ、すみません。自分のジャケットがよほど気に入ったんだなと思っていたんです。確かに僕もあのジャケットはお気に入りでしたから」

未希子は下を向いて、車中の時のように小さく縮こまっていた。今まで経験したことのない反応でもっとからかいたくなったが、祖母が睨んでくるのでこの辺でそろそろやめないといけないとなんとか思いとどまった。

「意地悪を言ってすみません。ジャケットのことは気になさらないでください」

「そうよ。ジャケットなんて買えばいいんだし。・・・・?・・・ちょっと待って。ジャケットってもしかして、未希子さんが話していたジャケットの王子様のこと?」

もうこれ以上赤くはならないと思っていたが、まだピークに達していなかったらしく、未希子はさっきより赤くなった顔を隠すように俯いた。

ジャケットの王子様?

未希子を覗き込むように見ると、私ではなく優美さんが・・・と呟いた。

「未希子さんからスコールにあった話を聞いたのよ。その時に見知らぬ男性からジャケットを貸してもらって、リムジンで送ってもらったって」

「ええ。びしょ濡れでしたからね」

「あら、レンらしくないんじゃなくて?いつものあなただったらそんな人がいることすら気づかなかったんじゃないの?」

確かに自分らしくない。それはレンが一番よくわかっていた。

「あの時は気になってしまったんです。運命だったのかな」

祖母は片眉をくいっと上げて意味深な表情でレンを見ながら、案外レンもロマンチックなことが言えるのね、と嬉しそうに二人の顔を見比べた。

“運命”と言う言葉が祖母を大喜びさせていることが手に取るように分かり、この会話をこのまま続ける気はなかった。

「ナイナイ、もういいじゃないですか。せっかくのランチが台無しだ。そうですよね?未希子さん」

ウエイトレスが料理を運んできたのを合図に詮索を中止してもらい、ランチを楽しむことにした。未希子も調子を取り戻したようで、テーブルに次々と料理が運ばれると、祖母が説明をするのを聞きながら、未希子はへぇと驚いたり、美味しいですねと喜んだり、食べている時でさえめまぐるしく表情を変えていった。

中国人の親族を持つレンにとって、「食」と言うのはかなり重要な部分だ。中国では民以食为天(ミンイーシーウェイティエン)と言うぐらい、食べることが何よりも重要だと考える。ダイエットだとかスタイルが気になるなどと言って食べない女性は、その時点でどんなに美人であろうとも、レンの中から削除されていた。そして、見合い相手のほとんどが体形をかなり気にしていた。ところが, 未希子は全ての料理にトライして、嬉しそうに祖母と感想を言い合っていた。そしてそんな彼女を好ましく思いながらも、あの出会いが本当に仕組まれたものではなかったのか、もしそうだとしたら残念だと思わずにはいられなかった。

「デザートもあるのよ」

「わぁ!本当ですか。なんだろう」

「杏仁豆腐はお好き?」

「はい!とても」

期待で待ちきれない子供のような顔をして、優美を見ながら微笑んだ。なぜ祖母ばかり見る?隣に座っていたなら、顎を掬い取って、自分のほうを見るように言えるのに。レンは未希子の態度が気に食わなくて、わずかに眉根を寄せた。しかし、ウェイトレスが運んできた杏仁豆腐を見て大喜びし、眼を閉じて全神経を集中させ杏仁豆腐の舌触りにうっとりしている未希子の様子を見ると、不思議と苛立ちは収まっていった。

「レンや。食事の後は何か予定があるの?」

「いいえ。未希子さんがせっかくシンガポールに来ているので、どこか案内でもしたほうがいいかと思って、今日の予定は全てキャンセルしましたよ」

もちろん、状況が違えば丁重にお断りして席を立っていたが。

・・・ぁ・・・・ゎ、私のことはお構いなく。

杏仁豆腐の夢物語は終わったかのように急におどおどし出し、消え入りそうな声で言う未希子に対して、レンはにこやかに返した。

「未希子さんと“ゆっくり”お話ししたいですし」

「そうよ!そうよね。それがいいわ。未希子さんもこの後特に予定は入れてないでしょう?」

「・・・・・ぇ・・・・まぁ・・・・」

「だったらいいじゃない!二人でゆっくり過ごせば!!私はお邪魔しないようにするから」

「い、ぃぇ・・・ぜひご一緒に・・・・」

「やだ、未希子さん。私、そんな野暮なことはしないわよ。レンだって二人っきりになりたいだろうし。ねぇ、レン?」

「そうですね。未希子さん、ナイナイとばかり話していたので、焼きもちを妬くところでした」

レンはフッと微笑んだ。こんな微笑みをされたら普通相手は恥ずかしがったり、ぼーっと見惚れたりするのだが、未希子は不思議そうな顔でレンを見返していた。

「未希子さんと二人きりになれば少しは未希子さんの時間を独占できますしね」

レンには二人きりになって、祖母との関係など未希子に確認したいことがいくつかあった。一方、未希子は居心地悪そうにうなずくと、そっとため息をついた。
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