シンガポール・スリング

「・・・・・」

相手が勝手に目の前から消えるような経験を今までしたことがなかったレンは、ただ茫然と閉じられたドアを見つめていた。

これで2度目だ。

部屋に入った瞬間は、あんなに喜んでいたじゃないか。
なのにあの一言で、一気に状況が変わってしまった。

レンは頭を抱えてリビングのカウチに沈んだ。確認する必要はあったが、あんな言い方をしなくてもよかったかもしれない。計画的に自分に近づいたのではないとわかっているのだから、何もこの瞬間に言うことでもなかったのかもしれない。

大きなため息をつき、今の状況を打破する方法を考えた。明日帰国すると言っているのだから、今日中に会って話すしかない。でも、気づけば、彼女の名前とビル
が見える部屋に滞在していること以外、携帯の番号も、ルームナンバーですら知らない。レンは大きくため息をつくと、祖母から助言を得ようと、仕方なく携帯を取り出した。



ホテルの1階にある南国の木々に囲まれたプールサイドで、優美は一人勝利の祝杯を挙げようとシンガポールスリングをオーダーし、カバナで寝そべっていた。ランチの席のことを思い出すと、どうしても笑みを止めることはできなかった。
隣に座っていたレンが未希子にくぎ付けだったのは一目瞭然だった。

あのレンが女性に興味を持つなんて。
普段は女性に対して冷やかな眼を向けるレンだったが、今回は愛しくてしょうがないといった、今までに見たことがない表情だったのだ。
未希子さんとうまく行けばいいけど。
そんな矢先に来たレンからの電話だった。
内容を聞くにつれて、優美の中の怒りのバロメーターが上昇していくのがわかったが、何とか声を落とした。

「仕事に関してはあなたは本当に優秀だけど、女性に関してはあきれるぐらい無能なのね」

「ナイナイ・・・・自分が何をしでかしたのか十分にわかっていますから、ルームナンバーをお願いします。明日帰ると言っているので時間がないんです」

「明日?オープンチケットを渡したのだけれど、そんなに早く帰国することにしたのね」

「仕事をこれ以上休めないそうです」

「そりゃ、未希子さんのコーヒーを待っている常連客がたくさんいるでしょうからね」

優美は自分に電話をかけてきただけ、まだましかと思いなおすことにした。

「これからコンシェルジュに頼んでジュエリーショップでも行って、ネックレスか何かプレゼントして許してもらおうと思ったんですが」

「え?」

「どこかお勧めのブランドはありますか」

「・・・・・・・・・・・」

「若い女性が好きそうな・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「ホテルの方から届けてもらって、少し落ち着いたころを見計らって、電話をしようかと」

「レンや・・・・」

「はい」

「あなた、本当に未希子さんに興味を持っているの?」

「え?」

「コンシェルジェの手を借りようと思っているなら、未希子さんのことは諦めなさ
い。そんなものは未希子さんには絶対通用しないでしょうから」

「?!」

一体どこで間違えちゃったのかしらね。あなたのお父さんだって、もう少し器用でしたよ。

「・・・すみません」

レンは本当にどうすればいいのかわかっていないのだ。

いつもレンがビジネスに集中できるよう完ぺきな秘書たちがビジネス以外のことをサポートしている。女性関係も含めて。

しばらくお互い無言だったが、レンはぼそぼそと話し始めた。

夕食に・・・・誘いたかったんです。
その後、ウォーターフロントであるスペクトラのショーを一緒に観れたらいいなって思って・・・。

「素敵じゃないの!とってもいいアイデアだと思うわ」

「でも、誘う前に怒らせてしまったんです」

「謝ったの?」

「え?」

「失礼なことを言って未希子さんを怒らせた時に、あなたは謝ったのかって聞いてるの」

「たぶん・・・・ぃや・・謝らなかったかも・・・しれません」

「じゃあ、まずはそこからじゃないかしら」

「・・・・・」

「自分が悪かったって思ってるんでしょう?」

「まぁ・・・・でも許してくれなかったら?」

そんなの知りませんよ!優美は声を荒げた。
許してもらえるまで、謝りなさいな。ビジネスでもそうじゃないの?あなたの社員が社外に対して何か間違いを犯したら、あなたが会社の責任者として謝るんでしょう?なら今回も同じじゃないの。心から自分の非を認めて、謝りなさい。プレゼントなんてそんな見え透いたものを彼女の鼻さきにぶら下げても見向きもされないわよ。

「私の知っている未希子さんなら、心から謝罪している人間を無視できる人間ではないわ」

・・・・・わかりました。

「ルームナンバーを教えてあげるから、すぐ行って必ずいい返事をもらって来なさい。電話なんて掛けるんじゃなくて、自分の足で行って、顔を見て謝ってくるのよ」

パーソナルな理由で人に頭を下げるということをしたことがないレンにとって、未希子への謝罪は未知の世界だった。未希子のことをもっと知りたいと思う自分と、こんな面倒なことをするなら一層のこと辞めてしまえ。別に未希子一人が女性と言うわけでもないんだし、レンに近づきたいと思っている女性は国内外含めてたくさんいるのだから、とささやくもう一人の自分が頭の中で拮抗していた。

ただ一つだけ言えることは、あれが未希子との最後だということだけは絶対に避けたかった。
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