シンガポール・スリング

・・・・・・

信じられない!

未希子はバンッとルームドアを閉めた瞬間、ドアに当たってしまった自分が嫌になった。確かにMrリンは思わず振り返ってしまうぐらいの容姿の持ち主であり、昨日の出来事は未希子にとって本当に王子様そのものであった。ランチでもMrリンからの視線にどぎまぎして、目を合わせることがなかなかできなかった。彼のスマートな誘いは未希子をうっとりさせたのも事実だ。しかし、二人きりになってからの彼の態度と言葉に、未希子は心をえぐられるような気がした。

少しだけ、ほんの少しだけ期待してしまったのだ。

彼の優しさに。
だから余計に落ち込んでいるのだ。
Mrリンの横柄で、人を見下すような表情をまた思い出し、未希子は何かを蹴飛ばしたい気分になった。
もしかしたら今日の最終便で帰れるかもしれない。あの完璧なホテルのスタッフだったら何とかしてくれるに違いない。
とにかく一刻も早くここを出て行って、元の生活に戻りたい。
すぐにスーツケースを開け、着ていたシルクのドレスを脱いでスーツケースに投げ入れようとしたが、シルクの手触りが未希子を思いとどまらせた。

「ドレスに・・・・当たっても仕方ないものね」

そっとドレスを手に取り、肌に吸い付くようなシルクの肌触りにうっとりとしながら丁寧に折りたたんだ。代わりに襟首が大きく開いたターコイズブルーのリネンコットンに着替え、荷造りをし始めた。

荷造りと言っても、たった4日分。

アスプレイのアメニティーはやっぱり持って帰りたい。そんなことを考えバスルームでアメニティーグッズを手に取った時、コンコンコンと三回ドアをノックする音が聞こえた。

「Yes?」

「レンだ。・・・・ここを開けてくれないか?話がしたい」

ドアの向こうからくぐもった声が聞こえた。

話?話したいことなんて何もない。

「荷物をまとめているので、今忙しいんですけど」

「・・・荷物?帰国は明日だろう?」

何時の飛行機を予約したんだ?
ドアの向こうから焦った声が聞こえる。

・・・・9時20分発です。

・・・・・頼む、開けてくれないか?・・・・謝りたいんだ。

未希子は腕を組んでドアの前に立ち、開けるべきか悩んだ。できることなら開けたくない。ただほんの少しだけ心が揺れたのは、ドアの向こうから聞こえてきた声があざ笑うようではなく、なんだか少し心細い声だったからだ。

未希子はしばらくの間、自問自答を繰り返していたが、仕方なくチェーンを外しドアを開け、どうぞと部屋の中に招いた。レンは入ってすぐ、むっとした表情でベッドの上のスーツケースに目をやった。

「明日リムジンを用意させる」

「!?いいえ、大丈夫です。タクシーを拾っていくので」

「タクシーがつかまらないかもしれないし、リムジンのほうが快適だ。それより・・・さっきのこと」

「・・・・・」

「時々自分の馬鹿さ加減にうんざりすることがあるんだが、さっきはひどいことを言ってすまなかった」

「・・・・・」

「キミがお金目当てだとは思っていないし、君が言った通り、最低だった。だからどうしてもキミに謝りたくて」

「・・・・・」

「すまなかった・・・」

「・・・・・」

「レストランで話していて、単純に今日一日一緒に過ごせたらって思ったんだ。なのに、キミを傷つけてしまって。・・・どうすればいいかわからなくなって」

レンは話しながらどんどん自信を無くしてしまったように声を落とし、言葉を詰まらせてしまった。未希子はそんなレンらしくない弱気な姿を見ていられなくなって、彼の腕にそっと手を当てた。
「Mrリン。謝ってくれたので、もういいです。気にしないでください」
レンは腕に触れている小さな未希子の手を見てから、まっすぐに未希子を見返した。

「それは」

「・・・?」

「残りの時間を一緒に過ごしてくれるってこと?」

「!」

「気にしないってことは、もう一度やり直してくれるってことなのか?」

「・・・・・・」

まぁ・・・・そういう考えもできるかもしれません。

「?そういう考えができるとはどういうことだ?一緒にいれるのか、いれないのか」

レンのすがるような眼を見て、はぁ・・・・と大きなため息をつき、未希子は一緒にいてもいいってことですと告げると、レンは緊張の糸が途切れたかのようにこわばった体の力を抜くと、よかったと呟き未希子を抱きしめた。

ちょっ!ちょっと!!何するんですか!!

未希子はあたふたとしながらレンの腕から逃れようとしたが、レンはしっかりと未希子を腕に抱えて、顔を首元に埋めた。

・・・・どうしようもないほどさっきのドレス似合っていたけど、このドレスも好きだな。それに、なんだろう。君からは甘い匂いがする。

レンは未希子を抱きしめながら、経験したことがないほどの歓喜の勝利を味わっていた。未希子が何とか腕の中から抜け出そうともがいていたが、腕をほどく気はさらさらなかった。

ちょっと聞いていますか!?Mrリン!

―――ごめん、聞いていなかった。何?

未希子を腕の中に収めたまま、首を傾げた。

っ!ですから、こんなんじゃあ、話すことができませんっ!!

「大丈夫だ。聞きこぼれがないよう、今100%集中しているから」

「そ、そういう意味ではなくて!もう少し、スペースを開けてください!」

それは受け付けられない要求だな。

「荷造りはもう終わったんだろう?じゃあ仕切り直しと言うことで、どこかに行こうか?」

「Mrリン?本当にお仕事はいいんですか?」

「キミはどうしても働いてほしいみたいだけど、この3週間休暇を取っていないんだ。1日ぐらい休んでもいいと思わないか?」

それはもちろん・・・

「お部屋でゆっくり休まれたほうがいいのでは?」

「キミがいるのに?」

「・・・・・・」

「その提案も却下だな。それに、Mrリンとずっと呼んでいるけど、レンと呼んでくれないか。君のことは未希子と呼ぶから」

レンの要求に未希子は頬を赤らめうつむいてしまった。

恥ずかしがり屋だなあ、と笑いながら、未希子の額にさりげなくキスした。

「ちょっ!?ちょっと!!」

ハハッ。悪かったって。さぁ、どこに行きたい?

許しを得た今のレンにとって、向かう所敵なしだった。

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