シンガポール・スリング
お見合いのためにシンガポールまで行く人なんて、そう多くはいないんじゃないかしら。というより、見知らぬ男性と会ってランチをすることを“お見合い”というカテゴリーに入れていいものか、河本未希子にはわからなかった。しかし世間一般にこれを“デート”と呼んでいないのは未経験の彼女でさえわかっていた。なぜなら男性と二人きりではなく、そこにはこのランチをセッティングした老婦人が付いてくるのだから。
未希子は手元にあるE-チケットを封筒に入れると、大きなため息をついた。2週間前まで、未希子の人生はいたって平凡で、個人経営の小さなカフェで働いている普通の28歳だった。


「いつも思うんだけど河本さんのコーヒー、本当においしいわ」

「そう言っていただけると、とてもうれしいです」

手を動かしながら微笑む未希子に、その老婦人もにっこりと微笑み返した。
この老婦人がカフェに通いだしたのは、去年の秋。
どこか浮世離れしていて、上品と言う言葉がぴったりのその老婦人がオーダーしたコーヒーをサーブして以来、未希子にとって特別な常連客の一人となった。
目尻の脇にはくっきりと笑いじわが刻まれているが、年齢を全く感じさせない澄み切った眼は老婦人をだいぶ若く感じさせていた。

「そういえば、この前河本さんが教えてくれたパン屋さん、行ってみたのよ」

「本当ですか?いかがでした?お口に合いましたか?」

「ええ!河本さんがお勧めしてくれた、クロワッサン。本当にサクサクしていたわ」

久々にあんなにおいしいクロワッサンを口にして、あれからあのクロワッサンの大ファンよ。それでね・・・

「遅くなっちゃったけど、河本さんに御礼したいと思っているの」

老婦人の突然の言葉に未希子はへ?と声を上げ急いで首を振った。

「そんな、気を使わないでください。自分の好きなお店をお勧めしただけですし、御礼をされるほどのことは何も・・・」

「とにかく、コーヒーを飲みながら待っているわ。休憩時間に少しお話しましょ」

そう言うと、老婦人はすっといつもの席に歩き出した。
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