シンガポール・スリング
・・・・・・

朝は苦手ではないはずなのに、未希子はベッドから這い出ることができなかった。昨日は遅くまで眠れなかった。それはあの自信で溢れるレンが最後に悲しみを携えた顔をして帰って行ったからだ。

6時少し前にのろのろとベッドから出た未希子は熱いシャワーを浴びて、体を目覚めさせ、昨日の残りのパンとジュースをぼんやりと食べて窓の外を見下ろした。
部屋の窓の向こうにはアジア一の金融街が立ち並び、街が目覚めるのを今か今かと待っている。
突然ドアをノックする音が聞こえ、未希子は確認もせずドアを開けると、グレーのスーツをかっちりと着込んだレンが立っていた。

「おはよう。ドアを開ける前に、誰かを確認するべきだぞ」

部屋に入りながら、小さく舌打ちした。

「こんな朝早くから来る人なんて、レンさん以外に誰もいません」

「・・・・・・」

「朝ごはん・・・・食べられました?」

「コーヒーだけ。急なミーティングが入ってしまって・・・空港までは行けそうにない」

目元を歪ませそっと未希子を見た後、目を閉じる。

いいんです。気にしないでください。わざわざそのためだけに・・・

気にする―――。

ポケットに手を突っ込んだまま、顔をすっと上げ未希子を見つめた。

「昨日、ずっと考えていたんだ。すぐにまた日本で会えるのに、どうしてこれが最後のような気がするんだろうって」

「・・・・・・・」

「未希子が俺の両親のことを気にしているのもわかったし、未希子の中で解決できていないことがいくつかあるのもわかったけど、日本でも会いたい」

「・・・・・・・」

「そう考えているのは、俺だけ?」

未希子に一歩近づき、手の甲でそっと未希子の頬を撫でる。結婚しようと言われているわけではないのだし、レンが言ったように別に二度と会えないと言うわけではない。なのに、レンがあまりにも苦しそうに顔を歪めながら話すので、レンの痛みが未希子にも伝染してくるようで、勝手に目に涙が溜まる。未希子はばかげているように感じながらも、胸を押し上げる痛みを止めることはできなかった。

「日本に帰ったら、会いに行ってもいい?」

未希子はこくこくと頷く。

「ナイナイ絶賛のコーヒーを飲まないとな」

すっと涙がこぼれたが、未希子は微笑もうと口角を上げた。レンがこの重い雰囲気を少しでも和らげようとしているのが伝わってくる。

「でも一つだけ―――」
レンは頬に残る涙の後をぬぐいながら未希子を見下ろした。

「一つだけ頼みがある」

「?」

「・・・どうしても、どうしても、今、未希子にキスしたい」

そう言うと、未希子の答えを待たずに、両頬に手を当て、掬い上げるようにキスをした。


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