シンガポール・スリング


未希子にとってそれは俗にいう“ファーストキス”だったが、初めての経験となるそのキスは想像していたものを180度変えてしまう、自分の中の何かが持って行かれるような、代わりに何か別のものが植えつけられるような、体の中を電気が駆け抜けるような強烈な感覚だった。
未希子はそんな初めてのキスに眩暈を覚えながら、レンの腕にしがみついた。

たった半日一緒に過ごしただけ、告白とか付き合おうとかそんな約束すらしていない。全てをすっ飛ばしたこの状況を一体何というのだろう。今まで好きな人がいたことはあってもそれは緩やかな坂を上るような感覚で、一つずつ小さな“好き”を見つけてはそれを積み上げていくパターンだったし、付き合ったことがない未希子にとって今の状況を理解することは到底不可能だった。自分が震えているのか、レンが震えているのかわからなかったが、キスの後も二人は額をくっつけ、無言のまま震えた体を抱きしめ合っていた。

もう行かないと・・・リムジンが・・・

レンはキスの後の最初の言葉がリムジンのことであることが気に入らないかのように、フンと鼻を鳴らした。

「待たせておけばいい」

「そんな無理なこと言わないでください」

「無理じゃない」

「・・・・」

「1日予定を伸ばす気はない?」

「それこそ無理な話です」

レンは大きくため息をつくと、渋々未希子と離れるために、無理やりとでもいうように肘を伸ばしてお互いの距離を取った。

「下まで送る」

そう告げるとスーツケースを手に取り、未希子をドアの方に促し、カードキーを抜いた。フロントデスクまではあっという間で、そのまま流れるようにスーツケースをベルスタッフに手渡し、カードキーをフロントに届けると、ジャケットの仕上がりを告げられ、真っ白なカバーが手渡された。

「・・・あの時は、本当にありがとうございました」

「あれが、二人の始まりだったんだな」

「そうですね・・・」

レンはジャケットを受け取るとリムジンが来ていることを告げ、無言のまま二人はエントランスのドアへと向かった。ドアマンはすっとリムジンのドアを開けたが、まるで二人が別れを惜しんでいるのを承知しているかのように、未希子が乗車するのを何も言わずに待った。
未希子はレンを見るべきだとわかっているのに、顔を上げると押しとどめている涙が堰を切って溢れ出てしまう気がして、うつむいたままだった。レンは何度か未希子の髪のなめらかさを手のひらに覚えさせるように触れてから、時間だよとやさしく車の中へと促した。

リムジンに乗った後、スモークガラス越しからレンを見つめると、悲しみで膨れ上がった目を隠すように細め、どうにか笑顔で送り出そうとしている。未希子はスモークガラスに顔を近づけ、左手を載せるとレンがそっと窓越しに手を添える。

待ってます・・・・

レンには聞こえなかっただろうし、聞こえなくていい。
それでも、ほんの少しだけスモークガラス越しで言えた未希子の本音。

そして、リムジンは静かに動き出した。


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