シンガポール・スリング
そして、木曜日。久しぶりに優美さんがカフェに訪れた。
「未希子さん、お久しぶり」
優美さんのふわっとした笑顔に、自ずと未希子も優しい笑顔になる。
「いらっしゃいませ。先日は本当にありがとうございました」
「嫌だわ。改まってそんなこと。こちらこそ遠いところまでありがとう」
「今日もいつものカプチーノでよろしいですか」
「ええ。お願いするわ。それより、もしかしてと思ってなんだけど、未希子さんレンの携帯番号を知らないの?」
それは帰ってきてからふと思ったことだった。
未希子は彼の連絡先も知らなければ、自身の連絡先も教えていない。帰ってからどうやって連絡を取り合えばいいのだろうとは思ったが、カフェに立ち寄ると言っていたので、特に深く考えていなかった。
「実は連絡先知らないんです・・・」
もう、あの子ったら、肝心なところがどこまでも抜けているんだから!ビジネスではこんなこと絶対しないのにと眉をひそめて呟いた。
「昨日レンと話していて、帰国が延期になるって言ってたの」
「え?」
「なんでも、今週頭の会合でシンガポール政府から追加の事案が提示されたらしく、今大忙しみたい。来週あったこっちの慈善パーティーにも欠席することになってね。私の友人が主催しているんだけど、レンにどうしても出席してほしいって言ってたから何とか漕ぎつけたのに、今になって欠席なんてひどいと思わない?」
「・・・・それは、優美さんのご友人もがっかりですよね」
もうすぐ会えると思っていたのに。未希子はちくりと心が痛むのを感じた。
「それに、来週帰ってこれないって未希子さんに直接言えばいいのに、連絡先を知らないなんて言ってくるし。仕方ないから私が連絡係になっているんだけど」
「す、すみません!私も聞き忘れていたんです。1週間後には会えるからって、特に深く考えないで」
「若いんだから、毎日声が聞きたいとか側にいてほしいとかないの?私が若い頃なんて、2階の家の窓に英二さんとか会いに来てくれたものよ」
「にっ、2階の窓ですか?!」
「そうよ。だって門限が厳しかったし、話したと思うけど両親には反対されていたでしょう?普通に日中会える時間なんて限られているんですもの。夜中に会うしかないでしょ?恋ってそういうものよ」
出来上がったカプチーノをいつもの席にお持ちしますと言うと、今日はカウンター越しで未希子さんとお話しするからここでいいわと未希子の前に座った。
「レンはビジネス一筋で、結婚も両親から言われた政略結婚を受け入れると言っていたの。あの子にとって結婚ってそんなものなのよ。そんな考えの孫を未希子さんに薦めるなんて、本当に失礼極まりないんだけれどもね。でも、もしかしたら、未希子さんのようにすべてを包み込んでくれるような優しさがある女性なら、ビジネスとか利害とかそんなもの取っ払って、レンという人間を見てくれるんじゃないかって。もしかしたら、レンは未希子さんと出会うことによって、今まで出会ってきた女性とは違う女性もこの世界にはいるんだってことに気づくんじゃないかって。心の底から愛すことができる人に出会えるんじゃないかって思ったの」
「私との出会いなんてそんな大げさなものでは・・・」
そんなことないわ。あなたが帰国した日は本当に心ここに在らずで、秘書も大変だったそうよ。優美はフフッと笑いながら、カップを手に取った。