シンガポール・スリング
未希子が働いているカフェは大通りを一つ入ったところにあり、通りに面している壁はガラス張りとなっていて、外の光がお店の奥まで届くよう造られていた。座席同士の距離も適度に保たれていて、静かに流れるボサノバの音楽を聴きながら、本を読んだり、仕事をしたりできる。反対側には植物に囲まれたバルコニーがあって、まるで森の中に迷い込んだかのような不思議な空間が広がっていた。老婦人は、いつもカフェの一番奥にある彼女の背丈ほどの観葉植物パキラの隣にある2人席に腰掛ける。そこはカフェ全体が見渡せるようになっていて、その老婦人は1時間ほど人間観察をしては帰っていく。

「お持たせしました」

未希子は11時からの昼の休憩に入ってすぐに、老婦人の席に向かった。

「ごめんなさいね。急がせちゃったかしら」

「いいえ、いつも11時からお昼時間をいただいているんです」

「じゃあ、何か食べてちょうだい。食べながら話せばいいから」

老婦人は小さなバックから封筒を取り出しテーブルに置くと、軽く手を挙げてウエイトレスを呼んだ。未希子はラテとトーストサンドイッチを頼むと老婦人の前に腰を下ろした。

「・・・実はね、河本さんにお話したいことが3つあるの」

そう言いながら、老婦人は申し訳なさそうな、それでいてちょっとうれしそうな表情を浮かべた。

「今更だけど、自己紹介をさせてちょうだい。名前は林 優美。河本さんのコーヒーが大好きなおばあちゃんよ。そして、周りの人間からは早くこの世からいなくなればいいと思われているけれど、あなたのような素敵な女性に出会って、生きているうちに何かまだ楽しいことがあるかもしれないって思えるようになったの」

「そんな・・・」

老婦人はくすっと笑いながら、本当に感謝しているのよとそっと目を伏せた。

「わ、私は何も・・・」

「ううん。河本さんと出会えたことは奇跡だと思っているのよ。だからありがとうって伝えたいと思ったことが一つ目。二つ目はね・・・」
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