シンガポール・スリング
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今週に入って、オーナーの山瀬と文香はシンガポールに関して一切口にしなくなった。未希子も見習の瀬尾の指導に忙しく、その忙しさが未希子を何とか動かしている状況だった。
「未希子さんが作るフォームって本当にきめが細かいですよね。俺のなんてなんかボツボツしてて」
「練習すればすぐできるようになるよ」
「・・・ってもう1ヵ月は同じこと言っていますよね」
「だって、本当のことだもん」
このカフェに半年前から働きだした瀬尾はぶつぶつ文句を言いながら、未希子が出してくれたラテを口にした。
「うっわぁ!!舌触り、全然違いますもん」
「だから、練習すれば・・・」
「すぐできるようになるんですよね。わかってますって」
未希子は瀬尾の顔を見ながらクスクス笑った。瀬尾は未希子の2個下で、以前は1週間に1,2回だけだったが、今は毎日午前中だけバイトとしてこのカフェで働き、見習いバリスタとして未希子のサポートをしている。
「未希子さん、この前めちゃくちゃおいしいケーキ屋さん見つけたんです。今度一緒に偵察に行きませんか?」
「いつ食べに行く時間があるのよ。忙しいでしょ?」
「山瀬さんに休みもらいましょうよ」
「そんなことできるわけないでしょ」
「できますって」
「そんなこと考える暇があったら、フォームドミルクの練習でもしなさい。うまくできるようになったらお祝いでそのケーキ屋さんに行けばいいでしょ」
ちぇっ、いつも厳しいんだからなぁとぶつぶつ言いながら、未希子を盗み見した。山瀬はそんな二人を見て、未希子ちゃん厳しいねと苦笑した。
「そうですか。普通だと思いますが」
「だって瀬尾君、何とかして未希子ちゃんをデートに誘いたいのに、完全にアウトオブ眼中じゃない?」
は?
とっさに瀬尾を見ると、むせながら頬を赤くしている瀬尾が山瀬さんに何言ってるんですか!?と嚙みついていた。
「っていうか、アウトオブ眼中って言葉、オレかなり久しぶりに聞きました」
「え?これって死語なの?」
「使ったことないですね。多分山瀬さんの世代の流行語なんじゃないですかね」
何ぉ~。山瀬は瀬尾にヘッドロックをかけてバシバシ頭をひっぱたき、瀬尾はタップアウトのシグナルを出して許してくださいと喚ていた。
このカフェで働いていなかったら、未希子は完全に外とのつながりを閉ざしていただろう。あのニュースを見て以来、レンを探すのを辞めた。シンガポールであったことも全て忘れようと努力していた。優美が訪れなくなったことが残念だが、彼女と会えば自然とレンを思い出してしまうため、逆に気を使って来ないのだろうとも思っていた。