シンガポール・スリング
ゆっくりとコーヒーが下りていくのを待ち、コーヒーの香りを感じながら、静かにカップに注いで、初老の前に差し出した。
「ありがとうございます。なんだか、茶道のお点前のように感じられました」
「そんなたいそうなことはしていません。ただコーヒーの声に耳を傾けるようにとはよく言われました」
「ほう。コーヒーの声ですか」
「声と言っても、実際話しているわけではありませんが。コーヒーそれぞれが特徴を持っていて、その特徴をしっかり見極めることが大事だと。彼らの良さを最大限に生かして、その最大限の状態でサーブできるようにとよく言われました」
未希子はろ過布を流水の下で洗いながら説明した。
「未希子さんのコーヒー、確かに香りが全然違いますね」
「オーナーの山瀬さんのコーヒー選びがいいんじゃないでしょうか。山瀬さん、コーヒー豆に本当にこだわってますから」
初老はうんうんとうなずきながら、山瀬の方に目をやった。
「未希子ちゃん、そんなにおだてても給料上がらないからね」
そ、そんなこと考えていませんからね!!
未希子はぶるぶると首を横に振って顔を赤らめていくのを見て、3人はおかしそうに笑った。初老はその他にもいろいろとコーヒーについて質問をしてきたが、ふと腕時計を見て、もうこんな時間ですかと言いながら立ち上がった。
「美味しいコーヒーをありがとうございました」
「いいえ、またいらしてくださいね。お待ちしております。ありがとうございました」
未希子は丁寧にお辞儀をして、初老を見送った。
ドアが閉まった瞬間、山瀬が今のお客さんの腕時計、見た?と興奮しながら話し出した。
「やっぱ、あれって本物でした?自分も一瞬見てまさかとは思ったんですが」
???・・・何のことですか。
「まぁ未希子ちゃんは女の子だし、あまり時計とか興味ないかもしれないけど、男の人って結構目が行っちゃうんだよね。どんなスタイルとかさ」
「自分はいつもベルトが皮かメタルか見ちゃいますね」
「ああ、それわかる。瀬尾君はどっち派?」
「自分は断然皮派です。Gショックみたいなのはまた別ですけど」
「そうなんだ。俺はやっぱりメタルかな」
「ああ、なんかわかります。メタルだとやっぱり年配って感じがしますもんね」
なにぉ!!!瀬尾の給料は絶対に上げてやらないと憤慨しながらも、やっぱりあの時計が気になるらしく、やっぱりオーデマピゲすごいね・・・と山瀬がぼやくと、実は自分、生まれて初めて実物?本物?を見ました!と瀬尾もまた騒ぎ始めた。初老のしていた時計が、そんなに恐れ多いものだとは気づきもしなかった未希子だが、確かにあの方に似合ってたなと考え、ふとレンも確か時計をしていたと思い出した。そしてすぐに、腕時計だけでレンを思いだす自分が嫌になった。忘れようと努力しても、ふとした瞬間やちょっとしたことでレンとのことが脳裏によぎる。
どうやって忘れればいいのか。
未希子は何とかしてその方法を見つけ出そうとしていた。