シンガポール・スリング
その客は未希子が先週まで毎日思い焦がれていた、そして、今週に入って必死に忘れようと努力していた人だった。
「ただいま・・・約束していたコーヒーを飲もうと思って」
レンは未希子に視線を向けたまま、一歩ずつ近づいて行った。
「・・・ちゃん。未希子ちゃん?」
山瀬は訝しむ眼で未希子を見ていたが、あ・・・・と声を出して、もしかして?と未希子とレンの顔を交互に見つめ返した。
レンは何も言わずに未希子の前に来ると、覗き込むようにしながらコーヒー、いいかなと声をかけた。
未希子は一度目を閉じてあふれ出しそうな感情をぐっと押し込むと、ゆっくりと眼を上げいらっしゃいませと無機質な声で返し、カウンターの中へと入っていた。
レンは一瞬眉間を寄せたが、そのままカウンター席へと着いて、未希子の正面に座った。未希子はいつものコーヒーを用意しようとキャニスターを手に取ると山瀬から声がかかった。
「未希子ちゃん、せっかくだからエチオピア豆にしたら?」
「え?」
さっきのすごくおいしかったらさ。
「みきこさぁぁぁぁん」
へ?!
3人は喚き声がする方向に目を向けると、瀬尾が肩を回しながら店内に入ってきた。
「自分にもコーヒー淹れてくださいって言ったじゃないですか」
「・・・淹れたよ。呼びに行こうとしたらお客様が・・・」
その時初めて瀬尾は客がいることを知り、申し訳ありませんと礼儀正しくお辞儀するとカウンターの中に入って未希子の入れたコーヒーを口にした。
「うっわ!!なんですかこれ!?」
「山瀬さんがサンプルで購入したエチオピア産の豆だって」
「俺でも違い解ります!」
「よかった。これでわからなかったら本当にバリスタには向いていないなって思っていたところ」
未希子さん、マジで今日の塩対応きついっすよ。自分アサイメントで大変だったんですから優しくしてくださいと言いながら、カウンターに突っ伏した。
レンは表情を変えずに静かに3人の話を聞いていた。未希子はなるべく目の前の人に気を取られないようにゆっくりとミルで豆を挽き、お湯を沸かし始めた。ロートにコーヒー豆を淹れ、いつものルーティーンでコーヒーを淹れる。レンは目を閉じて、体全体でコーヒーの香りを楽しんでいるようだった。静かにコーヒーがフラスコに落ちるのを待って、カップに注ぎ、レンの前に出した。
レンはありがとうと呟くと、カップを近づけもう一度香りを楽しんでから、口に含んだ。
「すごいな・・・・。すっと喉を通っていく。これを飲んでしまうと他のコーヒーが霞んでしまうな」
ありがとうございますと一礼した後、フラスコを冷水の下において洗い流した。
「未希子・・・・遅くなってごめん」
レンの言葉にびくっと肩を震わせた。未希子は何も言わず無心になってロートを洗い、次にフィルターを洗浄した。
「話を聞いてほしいんだ」
未希子は乾いたタオルをカウンターに敷き、その上にフラスコとロートを並べた。