シンガポール・スリング
2
赤道直下の国、シンガポールだから暑いだろうとは予想していたものの、シンガポールにとっての9月がまさかバケツをひっくり返したようなスコールの月だとは知らなった。

天気予報で32度と出ていたので、白い薄手のノースリーブシャツと短パンでガーデンズ・バイ・ザ・ベイに出かけた未希子は突然の雨に全身びしょ濡れとなるのはものの数秒のことだった。近くのビルに避難したものの、冷房で冷え切ったビルの屋内に入ることができず、高層ビルのエントランスにあった屋根の下で雨宿りすることとなった。つば広帽子はUVカットはしてくれたが、このスコールには雀の涙程度しか役立たず、服は未希子の体にこびりついてしまっていた。

「大丈夫ですか」

突然頭上から声がして見上げると、この暑さを感じていないかのように涼しげにスーツを着た男の人が日本語で話してきた。異国の地で突然聞こえた日本語に未希子はすぐに返答ができなかった。

「Oh…. Sorry, are you Singaporean? Or Chinese?」

「あ、いえ!日本人です。すみません」

「・・・タクシー、呼びましょうか?その恰好では観光は続けられないだろうし。」

ちょうどその時後ろの自動ドアが開き、冷たい空気が押し寄せ、未希子は思わずブルッと震えた。男はその様子を見てチッと舌打ちをすると、着ていた上着を未希子に被せた。

「?!・・・結構です!ジャケットが・・・」

「そのままだと体を冷やしてしまうでしょう。それにキミの服・・・」

その言葉と同時に自分の姿を見た未希子は下着のレースの形までくっきりと浮かび上がらせるほどずぶ濡れとなっていたことに気づき、顔を真っ赤にし、すみません。お見苦しいものをお見せしてしまってと謝った。
こんな時に限って、ワインレッドの下着を選んでしまったなんて。
ワインレッドの下着は案外透けないから好んで着ていたがそれは服が乾いている場合のみだ。
男は口元を手で覆いながら何か言いたげな様子だったが、突然視線をあげた。すると、どこからか黒のベンツが二人の目の前に滑り込んできた。

「ホテルはどこですか?この辺だろうからそこまで送っていきますよ。」

「い・・いえ!!大丈夫です。普通のタクシーを呼びます!」

「そんなんじゃあ、普通のタクシーは嫌がるんじゃないですか。お互い日本人同士ですし、気にせず乗ってください」

そう言うと少し強引に未希子を車に押し入れ、ホテルの名前を聞いた。

「それじゃあ・・・リッツ・カールトン・・・・お願いします」

「リッツ?マリーナベイにある、ミレニア・シンガポールのこと?」

そうですと言いながら、未希子は肩をすくませた。
確かに今の未希子のいで立ちはどう見てもリッツカールトン宿泊者ではなかった。
その辺のバックパッカーかちょっと値を上げてアビス。良くてもパッケージツアーでホリデーインでの宿泊が妥当だろう。男はちらっと未希子に目をやって運転手に冷房を今すぐ切るように伝え、リッツと告げると、車は音もなく動き出した。

「シンガポールは初めてですか?」

「はい。きれいな国だって聞いていましたが、街を歩いていて本当に驚きました」

「今回はツアーか何かで?」

「・・・・・」

未希子は膝の上に置いてあるバッグの紐の部分を折り曲げたり伸ばしたりしながら、ちょっとした仕事で・・・と答えた。

「仕事?」

男は怪訝そうに顔をしかめて、未希子を見つめた。

・・・大した仕事じゃないんです。

未希子はいいわけでもするかのように、小さくつぶやいた。

「仕事でシンガポールまで来て、スコールに当たるなんて運が悪かったですね」

「まぁこれもいい思い出です。それに・・・・仕事といってもたぶん1時間かそこらのものなのでほとんど観光ですね。」

1時間もかからない仕事のためにシンガポールへ?そして、リッツカールトンに?

男はますます訳が分からないといった感じで未希子に目を向けていたが、次の質問をする前に車は八角形の窓枠があるサッカーボールのようなデザインのガラス張りの正面玄関で止まった。ドアマンが優雅に車のドアを開け、‟お帰りなさいませ、Mr リン”と男に声をかけ、すぐ後ろにいるびしょ濡れの未希子を見るとぎょっとしたように目を見開き、お客様、スコールに当たってしまったんですね。お部屋の方に何か暖かいお飲み物をお持ちいたしましょうかと声をかけてくれた。

「いいえ、気になさらないでください。すぐにシャワーを浴びるので」

肩を窄めて小声で答えると、男の方に向き直り頭を深く下げた。

「あの・・・お忙しい所、ありがとうございました。ここ数日いろいろあって、今日のこのスコール。心細かったですが、日本人に声をかけていただいて本当にほっとしました」

ありがとうございましたともう一度丁寧にお辞儀をして、急いでホテルの中に入っていった。

あ、待って。ジャケットが・・・・・。

男は――レンは声を掛けようとしたが、女はマントのようにジャケットを翻して、小走りでホテルに入って行ってしまった。
とりあえず、レンは今あったことをゆっくりと頭の中で繰り返し、状況把握をしようと数分間その場で佇んでいた。

自慢ではないが、レンは自身の容姿がかなり目を引くことを知っていた。
くっきりとした顎のライン。突き刺すような視線と薄く引き締まった唇で冷たい印象を持たれるがそれが逆に女心をそそるのか、彼に近寄る女はひっ切りなしだった。逃げ出すように彼の目の前から去っていったのは、覚えている限り道端で拾ったこの日本人が初めてだった。
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