シンガポール・スリング
正直AWCに行った時の出来事が今もまだはっきりと記憶に残っていて、体が勝手に硬直してしまう。それでも未希子はレンに会いたかった。
自分の気持ちを知った今、できることは少しでもしたかった。
週末だからか、AWCの前はあの時のように人の行き来はなく、ひっそりとしていた。そういえば、会社は休みだろうから正面ドアは閉まっているはずだ。
今更ながら連絡も何もせず来ていることに気づき、行き当たりばったりの自分に苦笑した。正面ドアで立ち止まり、携帯を出そうとカバンを開けた時、軽快なヒールの音が聞こえ、100メートルほど離れたAWCビルの脇を颯爽と歩いている女性を目にした。
あれ?あの人確か―――。
未希子は携帯を手に持ったまま、彼女が歩いて行った方向へと足を向けた。
そこはAWCビルの地下駐車場につながる通路で、警備員が入り口に立っていたが、その横にはもう一人、男性がこちらを背にして立っていた。
女性は男に気づくと、足音を立てないよう小走りして後ろから抱き着き、男性が驚いたのを見て朗らかに笑っていた。
彼女を正面から見た瞬間、彼女がレンと噂されていたビジネスウーマンでモデルでもあるシュンリンだと気づいた。
ということは、あの男性は。
胸に突き刺すような痛みを感じ、未希子は思わず手で抑え込んだ。
二人を遠目で見ながら、震える指で携帯のスクリーンをスライドさせ、レンの連絡先をタッチした。その男性はシュンリンに何か話すとポケットから携帯を出し、耳にあてた。
「もしもし、未希子?どうしたんだ?未希子から電話を掛けてくることなんて初めてじゃないか?何かあったのか」
心配そうな声が携帯から流れる。
しかしその隣にはニコニコした女性がレンの腕に手を乗せ、すがるような眼差しで覗き込んでいる。
毎朝おはようと連絡してくれるレンに、少しずつ心を開いて行った未希子だったが、今までもメッセージを送りながら隣には女性がいたのかもしれないと思うと吐き気がした。付き合ったこともなく、憧れのような恋しかしたことのない未希子にとって今、目の前で行われていることは彼女の脆い心を容赦なく叩きのめした。
「・・・未希子?どうした?・・・?もしかして外からかけてるのか?」
「そうです」
「どこかに出かける予定?」
「まぁ、そんな感じです」
「ははっ。そんな感じって・・・」
その時大通りにある車がクラクションを鳴らした。
「未希子?・・・今どこ?なんか携帯から・・・」
そう言いながら男はキョロキョロと辺りを見渡し始めた。
「もう電話切りますね。お仕事頑張ってください」
「おい、ちょっと待てっ・・・」
携帯を切ったと同時に男は後ろを振り返った。
200メートルほど離れたところに、紙袋を持って立ち尽くしていた未希子を見た瞬間、レンは走り出した。未希子は紙袋を落として、自分も大通りへと走り出した。