拝啓 まだ始まらぬ恋の候、

『佐伯芙美乃様

拝啓 処暑の候、芙美乃様におかれましては格別のご厚誼を賜り、厚く御礼申し上げます。
さて、本日筆ペンと現金書留を受け取りました。先日お世話になったにも関わらず、重ねてお手数をかけてしまい、申し訳ございません。高い筆ペンだったので助かりました。』

いきなり名前で呼ぶのは失礼だろうか、と「芙美乃」を「佐伯」に直す。

「『佐伯さん』……『芙美乃さん』……。『芙美乃さん』の方が言いやすいけど、仕方ないか」

『先日は、私の非常識な行動により、佐伯さんには多大なご迷惑とご心配をお掛けしてしまいました。
新聞で私のことを読んだならもうご存じかと思いますが、あの日、私はタイトルを失冠したばかりでした。棋士をしていれば、平均して月に一、二度は負けます。だから負けるたびにあのようなことをしているわけではありません。失冠も初めてのことではありません。
しかし、三十歳を過ぎて数年経ち、若い頃のように『明日の自分は今日より強い』と迷わず信じることができなくなりました。
先輩棋士の話では、脳内にある将棋盤も、年を取るにつれぼやけていくのだそうです。
自分はもう限界ではないか。体力も棋力も少しずつ衰えて、少しずつ死んでいくのではないか。あのベンチでそんなことを考えていました。
でも、あなたが来て、』

長文になっていた。
芙美乃の、あの事務連絡のような手紙との温度差がどんどん開いていく。
迷惑をかけてしまった理由を説明すべきかと思ったけれど、そもそも芙美乃は廉佑の事情になど興味ないだろう。

読み返した手紙は愚痴っぽく、廉佑は顔をしかめる。
あのときは真剣に悩んでいたはずなのに、文章にしてみると滑稽に見えた。
廉佑に日記をつける習慣はないが、一度書き出すと気持ちの整理がつくのかもしれない。

言い訳がましい部分はすべて削除して、別のことを書き始める。

『あのときホットケーキを焼いて、とても楽しかったので、自宅でもう一度焼いてみました。』

書類ケースの中を漁っても、出てくるのは茶封筒や白無地の便箋ばかり。
手紙を書くのは仕事の一環で、私用のレターセットは持ち合わせていなかった。

芙美乃の手紙は夏の陽に透け、水紋に光が差す。
外出を躊躇わせる日差しも、こうすると豊かな色彩を帯びるようだ。
彼女はどんな気持ちでこの便箋を選んだのだろうか。
どんな便箋を好むのだろうか。

廉佑はインターネットを立ち上げ、大きな文具店を検索し始めた。


< 10 / 31 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop