拝啓 まだ始まらぬ恋の候、
三、 残暑が身に染むこの頃ですが、
あれからひと月。
あちこちに転がる瀕死の蝉に怯えながら芙美乃がアパートに戻ると、郵便受けには濃紺の封筒が届いていた。
差出人のところには『生駒廉佑』とある。
換気のため開けた窓からは月明かりとわずかな風が入った。
少し先に広がる遊歩道の辺りは暗く、さらに先にあるホテルの方向は煌々としている。
封筒を開けると、便箋はやわらかな白で、金色のツバメが箔押しされていた。
万年筆で書かれたのか、強弱豊かな筆致で綴られている。
『高い筆ペンだったので助かりました。』
とはいっても、何万円もするものではないだろう。
置いていったお金があれば、何本も買えただろうに。
『しかし、現金書留につきましては少々問題となりました。理由を説明する必要に迫られ、苦しい言い訳を繋げてどうにか受け取ることができました。もらってくれてよかったのに。』
恨みとも取れる文面に、芙美乃はひとつまばたきをする。
『次に手紙を送るときは、連盟ではなく直接僕に送ってください。』
「え? 次?」
封筒を裏返すと、確かに将棋連盟とは別の、都内の住所が書かれてあった。
『あのときホットケーキを焼いて、とても楽しかったので、自宅でもう一度焼いてみました。でも、うまくできませんでした。フライパンにくっついて、なかなか剥がれず、ベチャッと崩れてしまいました。油を敷いてやってみたら焼けたことは焼けたのですが、今度は焼きムラがついて、内側は少し生焼けでした。どうしたらあのときのようにきれいなきつね色のホットケーキが焼けるのでしょうか?』
天才ではなかったのか、と芙美乃はくすりと笑みをこぼした。
あのときの廉佑の様子を思い出しながら、「それはきっとね、」と便箋に向かって話しかけてしまう。
『そちらは涼しくなってきた頃でしょうか。寒暖差が激しくなって参りますので、健康にはくれぐれもご留意ください。
敬具
生駒廉佑』