拝啓 まだ始まらぬ恋の候、
◇
この日、近くのホテルで何かイベントがあったようだった。
そのホテルは、この北国の小さな地方都市では最も大きく格式も高いので、主要なイベントごとは大抵このホテルで催される。
芙美乃も従姉妹や友人の結婚式、企業の合同説明会などで何度か訪れた場所だ。
ラウンジのチーズケーキは絶品である。
ホテルで何かあると、目の前の道路はすぐに渋滞する。
そんな喧騒を避けて、芙美乃は住宅街へつづく通りを淡々と歩いていた。
芙美乃の住むアパートは、ホテルのある大きな通りから十分ほど入ったところにある。
公園へと繋がる遊歩道を横切って行くと早い。
日もとっぷりと暮れた七月のおわり。
まとわりつく湿気は暑苦しいが、それが木々を抜けるとやさしくまるくなる。
遊歩道にたたずむ街灯には、無数の羽虫が靄のようにたかっていた。
ヒメジョオンの葉を踏みながら防護柵を通り、ふたつ並んだベンチの間を大股で通り抜けた芙美乃は、危うく悲鳴を上げそうになった。
ベンチに男性がひとり座っている。
ここを通るようになって六年になるが、こんなことは初めてだった。
そのまま突っ切ろうとしたところ、持っていたバッグが引っ掛かって、男性のスーツケースを倒してしまった。
派手な音がして、うつむいていた男性ものろのろと顔を上げた。
「……すみません!!」
芙美乃は慌てて蓋の開いたスーツケースを起こし、土を払いながら中身を拾い集める。
靴下、ポーチ、ワイシャツ、パン……。
こんな状況になって尚、ぼうっと座っていた男性が、素早く芙美乃の手からそれを奪い取った。
暗がりで顔ははっきり見えないけれど、二十代後半から三十代前半。
黒いスーツに眼鏡をかけている。
手の中で小さく丸めたものをスーツケースに押し込み、さらに上から他の衣類を詰め込む。
「大丈夫です」
芙美乃は飛び退くように距離を取った。
「重ね重ねすみません」
「いえ」
男性はそのまま、ぐちゃぐちゃになった衣類にぎゅっと蓋をした。
ところが、倒した拍子にふたつある金具のうちひとつが壊れてしまったようで、完全には締まらなかった。
「本当にすみません」
「大丈夫です。気にしないでください」
「いえ、そういうわけには」
「高校生の時に買った安物で、元々壊れかかってたんです。この機に買い換えます」
「じゃあ、その分を支払わせてください」
芙美乃は名刺を渡そうとしたが、鬱陶しそうに手を払われた。
「どうぞお構いなく」
ガムテープででも止めておく、と取りつく島のない男性を待たせて、芙美乃はアパートへと戻った。
そして、スーツケース用のバンドを持って、走って戻る。
「よかったら、これ差し上げます。ピンク色だけど、ガムテープよりはマシだと思うので」
男性は前髪の隙間から芙美乃の手を見た。
そして、やっぱりのろのろと手を伸ばして、スーツケースバンドであることを確認すると、
「ありがとうございます」
と存外素直に受け取った。
またどうせ、いいです、大丈夫です、お構いなく、と拒絶されると思っていた芙美乃の胸に、野良猫を手なずけたようなひそやかな高揚感が兆した。
緩んでいたスーツケースを、男性は芙美乃のバンドで止める。
それを見届けて、本当にすみませんでした、ともう一度頭を下げた。