拝啓 まだ始まらぬ恋の候、
八、 惜春の候、
東京ではすっかり葉桜なので、桜の季節は終わったように感じていた。
北陸はまだ枝のところどころに花が残っている。
差し出されるように目の前に伸びた枝にも、うすいピンク色の花が揺れていた。
離れて見ると花の色と若葉の色が混ざり合い、濁って見えるけれど、間近で見る一輪の桜は、つぶらな瞳めいて愛らしい。
「生駒先生、どうしました?」
駐車場から今日のイベント会場までは数十メートル。
主催新聞社の飯尾は、歩みを止めた廉佑をふり返る。
「いえ。春ですねぇ」
大股で追いついて無難な返答をしておくと、飯尾も深追いはしない。
「名人戦も開幕しましたからね」
うなずいた飯尾の首には、立派なカメラがぶら下がっている。
「写真って、どうやったら上手に撮れるんですか?」
「写真ですか?」
「やっぱりスマホのカメラより、一眼レフでしたっけ? そういうカメラの方がいい写真が撮れるんですよね?」
飯尾は自身のカメラを撫でるように持つ。
「確かにスマホのカメラ機能よりずっといろんなことができます。でも、結局どんなものをどんな風に撮りたいのか明確になっていないと、使いこなせません」
「攻めのビジョンが見えていなければ、駒得でも意味がない、と」
「はい」
初心者とプロの差を想像して、一眼レフは頭から追い出した。
「生駒先生はカメラに興味があるんですか?」
「いえ。ただ、桜がきれいだと思ったので」
「先週だともっときれいだったんですけど」
「そうでしょうね」
春の御手が撫でるように、世界は南から色を変える。
北国にその色は届いているだろうか、と廉佑は想いを馳せた。
イベントと会食を終えて、ホテルの自室に戻ろうとすると、支配人から呼び止められた。
地元の写真家が撮ったというポストカードセットを手渡される。
飯尾から話を聞いたそうだ。
「ありがとうございます。きれいですね」
一番上にあった写真には、晴れた空を背景に、城と満開の桜が写っていた。
短い生を歌うように枝を伸ばす桜と、雲ひとつない青空は、毎年重なるものではない。
数年に一度のチャンスを捉えたものだろう。
見事と言う他にない。
「次はぜひ、もう少し早い季節においでください」
「そうします」
立ち去ろうとする支配人を呼び止めて、一番近い郵便局を尋ねると、フロントに頼めば他の郵便物と一緒に出してくれるという。
部屋に戻り、城と桜のポストカードにもう暗記している住所を記した。
『そちらは桜が満開でしょうか。芙美乃さんの手紙を読むと、いつも季節が少し違うように感じます。その差が、僕と芙美乃さんとの距離なのだと、』
そこまで書いて、廉佑は口を引き結ぶ。
酒のせいで、ペンが走り過ぎたようだ。
残りのポストカードを広げて、別の一枚を選ぶ。
高度な技術で撮影された桜の写真は、どれもこれも見事だ。
しかし、欠けたところのない絶景は、申し訳ないけれど廉佑の心を打たない。
「そういうことじゃないんだよな」
自分の目に映ったものを、そのまま届けられたら。
ほんの少し、そう思っただけだ。