拝啓 まだ始まらぬ恋の候、
十、 梅雨明けが待ち遠しい季節となりましたが、
廉佑からの手紙は、五月以降途絶えていた。
挑戦者決定戦のあと、芙美乃はいつものように近況を綴った手紙を書き、最後に勇気を出して、
『棋聖への挑戦おめでとうございます。頑張ってください。』
とつけ加えた。
『応援ありがとうございます。頑張ります。』
廉佑からもそう返答があり、その手紙に芙美乃は返信したが、それきりである。
六月に入ってすぐに棋聖戦が始まったせいだ、と芙美乃は自分に言い聞かせている。
対局には入念な事前研究が必要であるらしいし、二週間に一局、全国を移動しながらタイトル戦を戦い、合間に他棋戦の対局もある。
手紙など書く暇がなくて当然だ。
わかっていても、毎日郵便受けを開けるたびに落胆して、郵便受けごとモルタルで塗り込めてしまいたい気持ちになる。
第一局と第二局は平日だったので、芙美乃はほとんど見られなかった。
仕事を終えて走って戻り、見られたのは投了する姿ばかり。
二局を落とした廉佑は、第三局を落としたら挑戦失敗となる。
芙美乃のいるこの街には来ない。
注目の第三局は、七月最初の日曜日に開催された。
芙美乃は中継が始まる八時半からタブレットの前に座る。
八時四十七分に入室した廉佑は、縞模様の入った象牙色の着物に、光沢のある灰色の羽織を合わせていた。
肩のラインに気負いがなく、和装も身体にしっくりと馴染んでいる。
落とせない将棋であるはずなのに、これまでと違ったところは感じない。
巾着をトレイの横に置き、グラスに水を注いでひと口飲む。
きれいな手で、さらりと駒を並べていく。
芙美乃の手の方が少し震えていた。
九時に対局は開始された。
棋聖が先手、廉佑は後手であるらしい。
相矢倉、腰掛け銀、右四間、……。
真剣に解説を聞いているのに、芙美乃にはひとつも理解できない。
やがて、廉佑は左手で右袖を押さえて、あっさりとした手つきで角を引いた。
『後手はちょっと難しいとみて、持久戦に切り替えましたね』
ちょっと難しいとは、どのくらい難しいのか。
評価値はまだ互角なのに、解説からは廉佑に有利な言葉は聞こえてこなかった。
相手は、去年廉佑からふたつのタイトルを奪った棋士で、現在も二冠を保持している。
その攻めは非常に鋭く、並みの棋士ならすぐに切れてしまうような細い攻めを繋いで勝ち切る力があるらしい。