拝啓 まだ始まらぬ恋の候、
翌朝、スマートフォンのアラームを止めて、それでも五分ほど枕に突っ伏してから、芙美乃はしぶしぶベッドを出た。
開けっぱなしの窓からは、犬や雀の鳴き声と朝の喧騒が聞こえる。
タオルケットしかかけていないのに、すっかり汗ばんでいて、もう一度シャワーを浴びようとリビングに続くドアを無防備に開けた。
その瞬間まで、芙美乃は男性のことをすっかり忘れていた。
「あ……」
妙なひとを拾ったんだった、と思い出し、とりあえず乱れた髪を撫で付けた。
けれど、リビングに人の気配はない。
ソファーの上には夏掛け布団が畳まれてあり、昨夜あった場所から彼の荷物も消えていた。
夢だったのかな。
そうだとしたら、特段悪い夢ではなかった。
しかし、夢ではない、と主張するように、テーブルの上には芙美乃のものではないお札が乗っていた。
その周辺にはたくさんの小銭も散らばっている。
「はぁっ!?」
お金の下には、書き置きらしきものが残されていた。
流麗な筆の文字だ。
『昨夜は大変お世話になりました。あなたの心配は杞憂でしたが、思い掛けず快適に過ごせました。
始発に乗りたいので、ご挨拶もせずに出て行く無礼をどうかお許しください。
この手紙は、適当にその辺にあった紙を使わせてもらいました。よかったのかな?』
紙を裏返すと、それは回覧板だった。
『町内一斉清掃のお知らせ』や『交番通信』がホチキスで止められている。
「『よかったのかな?』じゃないよ。だめだよ」
あとでコピーし直さないと、とため息をつく。
『何かお礼がしたいけれど、何も持っていないので、財布の中身を全部置いていきます。代わりに、歯ブラシとスーツケースのバンドはいただいていきます。
ありがとうございました。お元気で。』
文面にあったように、本当に財布の中身を出し切ったらしく、五円玉や一円玉までごちゃごちゃとある。
「二、四、六……十二万八千六百二十八円……!!」
多すぎる。
一夜の宿代と食事代として、芙美乃が提供したものに釣り合わない。
この値段なら、ホテルのスイートルームでも泊まれる。
テーブルの下に筆ペンが転がっていた。
「極太」と書かれたそれは、芙美乃のものではない。
――いったい、あのひとは何だったのだろう。