愛人でしたらお断りします!


軽いノックの音がした。
椿がパッと顔を上げてドアの方を見たが、入って来たのは期待した人ではない。

「椿ちゃん、コーヒー冷めちゃった?」
「あ、シェフ」

顔を覗かせたのはル・リエールのオーナーシェフ、都築充嗣(つづきみつぐ)だ。

「すみません、今日は無理をお願いして」
「気にしないで。君のことは甥っ子の律希(りつき)から頼まれてるし、
こんな時だからこそ力になりたいんだ」

「ありがとうございます」

都築充嗣は、濃い髭をたくわえた恰幅のいいシェフだ。
彼は椿の友人で芦屋の老舗洋菓子店の息子都築律希(つづきりつき)の伯父にあたる。
律希と同じパリの製菓学校に通った縁で、椿は都築シェフに可愛がられていた。
だから今日も店を閉めている時間なのに無理を頼んでしまった。

「もう少しだけ、待たせてください」
「オッケー。彼が来たらすぐに知らせるよ」

「ご迷惑おかけします……」

消え入りそうな椿の声に、気にするなというように手を振って都築は部屋を出ていった。
もう何度目になるだろうか、腕時計を見て椿はため息をついた。

(あと30分だけ、待ってみよう……)

期待はしていなかったが、やはり待ち人はこない。
世界中を飛び回っている人がたまたま日本に帰っていると聞いて、焦って連絡してしまったのだ。
今の椿には、現状から救ってくれる人は彼しか思い浮かばなかった。



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