愛人でしたらお断りします!
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「大変だったな……」
蒼矢の声は低くて、ベルベットのようになめらかな艶がある。
「うん……」
「大丈夫か? 椿」
蒼矢は椿の側まで行き、幼い子どもにするように頭を撫でた。
椿が必死に涙を止めようとしているように見えたのだ。
「ご、ごめんなさい」
「気にするな、あんな急にご両親が亡くなったんだ……」
唇をキュッと結んだ椿の頬に流れるものを、蒼矢は指先で拭ってやった。
「忙しいのに、呼び立ててごめんなさい」
「いや……」
やっと泣き止んだ椿を、蒼矢は痛ましさと戸惑いの眼差しで見つめた。
ほんの小さな頃から知ってい女の子が、今や立派な社会人になって目の前にいる。
あこがれのケーキ職人になれたというのに、思わぬ不幸に見舞われた椿。
ひとりっ子なのに、いきなり両親を亡くした椿。
涙を堪えている健気なその姿は、蒼矢の胸を焦がすほどに焼きついた。
椿の父は、明治時代に創業した高級洋菓子店『プティット・フルール』の社長だった。
曾祖父の代に神戸の修道院で作られていたビスキュイを贈答用の焼き菓子として再現したら評判となり、一躍高級洋菓子店の仲間入りをした。
今でもそのシンプルなビスキュイは『プティット フルール デ シャン』の名で店の看板商品として売られている。
その他にもガトーショコラやガトーフロマージュ、焼き菓子などが若い女性に人気があり、今や全国のデパートにも出店している人気の店だ。
ケーキの美味しいカフェを新規に展開しようと事業を拡大しかけた矢先、
スイス旅行中だった椿の両親が列車事故で亡くなってしまった。
ふた月前の早春のことだった。