愛人でしたらお断りします!
『家を? いったいなにがあったの?』
『ごめんなさい。律希君にも事情は話せないの……でも、一生懸命働きます!』
椿の思いつめた表情を見れば、深い事情があるのはすぐにわかった。
椿は真面目だし、菓子作りに真剣に向き合っているのはよく知っている。
彼女を雇うとプティット・フルールからなにか苦情があるのではと頭を過ったが、律希はパリでの修行時代に助け合った仲間として、彼女を支えようと決めたのだ。
律希は、オーナーである父親に椿を紹介した。
『椿はパリの製菓学校で優秀だったんだ。ぜひ、うちで採用してほしい』
『よろしくお願いします!』
必死に頭を下げる椿を見て、オーナーは実際に菓子を作らせた。
入社試験のようなものだったのだろう。
その結果、確かな技術とセンスが認められた椿は芦屋の店で働かせてもらえるようになったのだ。
『ここで働く以上、プティット・フルールとはなんの関係もないものとして扱うよ。それでもいいかい?』
『もちろんです。一から修行させて下さい』
椿は店の従業員たちに素性を明かさないでほしいと頼んだ。
なんの後ろ盾もないひとりのパティスリーとして働きたかったのだ。
すべてを捨てて家を出た以上、‶プティット・フルール”の名前に甘えることは許されない。
それに遠く離れたとはいえ、誰にも居場所を知られたくなかった。
なんのしがらみもない、ただの‶椿”になりたいと願うのだった。