愛人でしたらお断りします!


それからの椿は、無心になって働いた。
無責任で申し訳ないと思ったが、会社のことも蒼矢のことも考えないようにした。
そうしていないと心が折れそうだったのだ。

蒼矢に、叔父から脅されたとは話せなかった。
自分たちが社長室でしていたことを見られたのが原因だから、言えなかったというべきか。
叔父に会社を乗っ取られるのは耐えがたいし、蒼矢に迷惑をかけたくない。
自分さえプティット・フルールから去れば、副社長の浜坂と蒼矢の力でなんとか叔父を排除してくれる……椿はそう考えた。

(私さえいなければ……)

椿は頑なだった。
蒼矢に愛されている自信がないせいで、すべてを自分ひとりで背負うことしかできなかったのだ。

(あの夜の甘い思い出さえあれば、生きていける)

彼との一夜の記憶があれば幸せだと思い込むことで、なんとか自分を保っていられた。

椿は芦屋の店では雑用でも下準備でも、与えられる以上の仕事をこなした。
その必死な姿が認められて、ひと月もすれば少しずつメインの工程に加わることも許された。

そんなある日、東京の柘植充嗣から律希に連絡が入った。

『久我君が椿ちゃんを探して店にやってきた。どうやら家を出たらしい。パリ時代まで遡って調べているようだけど、律希はなにか聞いていないかい?』

蒼矢は、椿が通っていたパリの製菓学校時代の友人や同級生をしらみつぶしに調べているという。
椿の固い決意を聞いていた律希は『さあ、知らないな』とだけ言って、なにも答えなかった。


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