あなたを満たす魔法
──母も、元気な頃に言っていたっけ。目を伏せてあかりは小さく苦笑をしていると。
「あ、あかりちゃん笑った!」
「はいっ!?」
菱山の指摘に、思わず目を見開く。
「笑った方が、ぜーったい可愛いって! 健くん見た?」
「女性の顔をまじまじと見るほど、こう見えてデリカシーがないわけじゃないんでね」
「何だよそれー」素直に可愛いって言えばいいのにさ。まったく、とため息をついた後に菱山はあかりに視線をやる。「今日の夕飯の買い物?」
「はい。長いもが美味しそうなので……これを使って」
「いいなー、料理うまいんっしょ? 俺んとこにも来てよ。2階に居るよ、俺」
「え? 2階?」
そうだよ、と菱山は頷いた。「俺、家永さんと同じマンション住みなんだ」。あかりは数秒停止したが。ああ、と目を見開いて頷いた。「もしかして、荷物を家に運び込んでくださったのって……」
「ぴんぽん! 俺ね! ご近所さんだし、これからよろしく~」
「よろしくおねがいします。本当にあのときは助かりました、ありがとうございました」
「どういたしまして。ついでに言うと、健くんは近所で開業医やってるから」
具合悪くなったり怪我したら、名渕医院に電話かけるといいよ。ほら名刺出して! と菱山が急かすので、名渕は、わかってると懐から名刺を取り出し、あかりに差し出した。それは確かに開業医の資格を持って開いている、医者の名刺だった。
「アイドルオタクな家永さんに付ける薬はないが、きみは万が一があったら頼るといいよ」
「ありがとうございま……、……? アイドルオタク?」
その言葉にあかりは目をぱちくりさせたが、あ。と菱山と名渕は固まった。「もしかして、聞いてなかった?」
「……はい……」
「健くんヤバくね? 俺しらねえぞ」
「言ってしまったものは仕方がないだろ黙れ菱山。しかし、前の恋人でアイドル絶ちをしていた家永さんが、まさか今もとは……」
「……わたしに遠慮してるんでしょうか?」
別に家永さんがどういう趣味を持っていらしても、わたしは構わないのに……。そう思い、困って、ぼんやりと何かを考え入っているような沈んだ顔で言う。ああ、でも。と菱山は直ぐにフォローを入れた。「前カノが出てって、まだ時間浅いし!」
「それでなんとなく尾を引いてるのかも。うん、きっとそうだって!」
「……あの」
「何? ……マジごめん、傷ついちゃった?」
いいえとあかりは首を横に振る。ただ、と少し言いよどんだ様子で。「……家永さんの、前の恋人さんって……」
「その……。趣味とか、にも……口をはさまれるような方、……だったんですか?」
言い方は悪いけど、とあかりは不自然に目を伏せて、冷や汗まじりに問いかける。ああ、と菱山と名渕は顔を見合わせたが、まあいつかは話す事だろうと思い、名渕が口を開く。「正直なところ……」
「俺個人は、あまり好かなかったな。同居しだした理由も、押しかけ女房さながらだったらしい」
「でも、いい人ではあったんだよな。美人だし、お洒落だし、面白かったし。ただ、アイドルより自分を見てほしいっていうタイプだったみたいな。家永さんも、別れた理由もそんな前カノに疲れて振ったって言ってて」
「なるほど……」
華々しい恋愛の経験が一度もなく、疎いあかりは理解が示せなかったが、それでも好き合った時期があったのだろうと考えた。けれど、部屋に元恋人の痕跡がまったくないという事は、全て捨てきった感情なのか? そういう疑問は浮かんだ。あかりは炊事洗濯掃除などの家事手伝いを学校へ行く片手間にしているが、女性ものの何かが出てきた事一度もなかったから。
2LDKの事を話してくれた以上、隠す必要はないと思っているだろうけれど、なんだかちょっと心苦しいな。そう思い、小さくため息をつくと。
「でもまぁ、気負わなくていいと思うよ。終わった事は終わった事なんだし」
菱山がそう言って、あかりの頭をぽんぽんと撫でる。顔をあげると、彼は苦笑していた。「家永さんが言ってた通りだわ」
「え?」
「真面目だから、ガス抜きが下手なヤツなんだよ、ってね」
「そんなに気になるなら、聞いてしまうのもありだと思うよ。同居人なわけだしな」
菱山と名渕が言うと、菱山の方が携帯を取りだして笑いかけてきた。「番号教えて!」
「家永さんにも話せないような、何か辛い事あったら。2階に住む、おにーさんが助けるよ」
ねー健くん。そう菱山が続けると、ああ。と名渕も携帯を取り出した。
「学生時代の先輩が、現役の女子高生をかどわかさないか見るのも、後輩のつとめだからな」
「どんな後輩だそれ。ね、あかりちゃんはどう?」
2人に見つめられ、体の内側から灯火がともったような、そんな温かな気持ちになる。やっぱり、家永さんの後輩さんなだけあって、面白くて優しい人たちだな。──緩む笑顔がこぼれ、小さく笑って頷く。「はい」
「是非、菱山さんと名渕さんの連絡先、お教えいただきたいです」
あかりが勇気を出したところで、ふたりは小さく朗らかに笑んでくれる。“他人を諦めない”という行為は、こういった新しい繋がりへ連れてきてくれるのか、と。あかりは少々ちいさく感動していた。
next.
「あ、あかりちゃん笑った!」
「はいっ!?」
菱山の指摘に、思わず目を見開く。
「笑った方が、ぜーったい可愛いって! 健くん見た?」
「女性の顔をまじまじと見るほど、こう見えてデリカシーがないわけじゃないんでね」
「何だよそれー」素直に可愛いって言えばいいのにさ。まったく、とため息をついた後に菱山はあかりに視線をやる。「今日の夕飯の買い物?」
「はい。長いもが美味しそうなので……これを使って」
「いいなー、料理うまいんっしょ? 俺んとこにも来てよ。2階に居るよ、俺」
「え? 2階?」
そうだよ、と菱山は頷いた。「俺、家永さんと同じマンション住みなんだ」。あかりは数秒停止したが。ああ、と目を見開いて頷いた。「もしかして、荷物を家に運び込んでくださったのって……」
「ぴんぽん! 俺ね! ご近所さんだし、これからよろしく~」
「よろしくおねがいします。本当にあのときは助かりました、ありがとうございました」
「どういたしまして。ついでに言うと、健くんは近所で開業医やってるから」
具合悪くなったり怪我したら、名渕医院に電話かけるといいよ。ほら名刺出して! と菱山が急かすので、名渕は、わかってると懐から名刺を取り出し、あかりに差し出した。それは確かに開業医の資格を持って開いている、医者の名刺だった。
「アイドルオタクな家永さんに付ける薬はないが、きみは万が一があったら頼るといいよ」
「ありがとうございま……、……? アイドルオタク?」
その言葉にあかりは目をぱちくりさせたが、あ。と菱山と名渕は固まった。「もしかして、聞いてなかった?」
「……はい……」
「健くんヤバくね? 俺しらねえぞ」
「言ってしまったものは仕方がないだろ黙れ菱山。しかし、前の恋人でアイドル絶ちをしていた家永さんが、まさか今もとは……」
「……わたしに遠慮してるんでしょうか?」
別に家永さんがどういう趣味を持っていらしても、わたしは構わないのに……。そう思い、困って、ぼんやりと何かを考え入っているような沈んだ顔で言う。ああ、でも。と菱山は直ぐにフォローを入れた。「前カノが出てって、まだ時間浅いし!」
「それでなんとなく尾を引いてるのかも。うん、きっとそうだって!」
「……あの」
「何? ……マジごめん、傷ついちゃった?」
いいえとあかりは首を横に振る。ただ、と少し言いよどんだ様子で。「……家永さんの、前の恋人さんって……」
「その……。趣味とか、にも……口をはさまれるような方、……だったんですか?」
言い方は悪いけど、とあかりは不自然に目を伏せて、冷や汗まじりに問いかける。ああ、と菱山と名渕は顔を見合わせたが、まあいつかは話す事だろうと思い、名渕が口を開く。「正直なところ……」
「俺個人は、あまり好かなかったな。同居しだした理由も、押しかけ女房さながらだったらしい」
「でも、いい人ではあったんだよな。美人だし、お洒落だし、面白かったし。ただ、アイドルより自分を見てほしいっていうタイプだったみたいな。家永さんも、別れた理由もそんな前カノに疲れて振ったって言ってて」
「なるほど……」
華々しい恋愛の経験が一度もなく、疎いあかりは理解が示せなかったが、それでも好き合った時期があったのだろうと考えた。けれど、部屋に元恋人の痕跡がまったくないという事は、全て捨てきった感情なのか? そういう疑問は浮かんだ。あかりは炊事洗濯掃除などの家事手伝いを学校へ行く片手間にしているが、女性ものの何かが出てきた事一度もなかったから。
2LDKの事を話してくれた以上、隠す必要はないと思っているだろうけれど、なんだかちょっと心苦しいな。そう思い、小さくため息をつくと。
「でもまぁ、気負わなくていいと思うよ。終わった事は終わった事なんだし」
菱山がそう言って、あかりの頭をぽんぽんと撫でる。顔をあげると、彼は苦笑していた。「家永さんが言ってた通りだわ」
「え?」
「真面目だから、ガス抜きが下手なヤツなんだよ、ってね」
「そんなに気になるなら、聞いてしまうのもありだと思うよ。同居人なわけだしな」
菱山と名渕が言うと、菱山の方が携帯を取りだして笑いかけてきた。「番号教えて!」
「家永さんにも話せないような、何か辛い事あったら。2階に住む、おにーさんが助けるよ」
ねー健くん。そう菱山が続けると、ああ。と名渕も携帯を取り出した。
「学生時代の先輩が、現役の女子高生をかどわかさないか見るのも、後輩のつとめだからな」
「どんな後輩だそれ。ね、あかりちゃんはどう?」
2人に見つめられ、体の内側から灯火がともったような、そんな温かな気持ちになる。やっぱり、家永さんの後輩さんなだけあって、面白くて優しい人たちだな。──緩む笑顔がこぼれ、小さく笑って頷く。「はい」
「是非、菱山さんと名渕さんの連絡先、お教えいただきたいです」
あかりが勇気を出したところで、ふたりは小さく朗らかに笑んでくれる。“他人を諦めない”という行為は、こういった新しい繋がりへ連れてきてくれるのか、と。あかりは少々ちいさく感動していた。
next.