あなたを満たす魔法
──食事を続けて、なんとでもないという様子で言う家永の言葉。あまりの衝撃に、固まってしまう。視線を落として、温かく美味しそうな夕食を見つめ、手を合わせて小声でいただきますと言うと、あかりは端正な所作でフォークとスプーンを使って食事を始める。
半熟卵を突くと、家永が割ったそれと同じように、ドロリ。黄身が溢れ出てきた。この卵は、この姿こそが美しいのだと訴えるように、部屋の白熱灯の明かりに反射し、ぬらぬらと光っている。クリームソースとパスタ、卵をしっかりとかきまぜてから一口。口内に、幸せな味が広がる。家永の言う通り、“美味いメシ”だ。それでいて、自分で得意料理と言うだけあってとても出来が良い。一口だけ口にした、ただそれだけなのに。
「おい」
込み上げてくるものの正体は、わかっていた。あかりは涙を浮かべて打ち震え、どうした。と声をかけてくれる家永に、なんでもない。と首を振って無言で訴える。言葉が出ないのだ。咽喉元で「なんでもありません」という言葉がつっかかっている。そして、口から放たれてくれない。
「まずかったか?」
「……」
「じゃあ……なんだよ。どうした」
カチャ。スプーンとフォークを一旦置いて休ませ、家永はそっと手を伸ばしてあかりの髪を撫でる。気分でも悪いのか、と問いかけても、首を横に振るだけ。悲しいのか、と問いかけても、あかりは首を横に振るだけだ。
「……から、です」
「……きこえねえ」
絞りだすように言うか細い声は、小さい。噛みしめた歯の間から、やがて嗚咽がほとばしり出てくる。落ち着けと言って席を立ち、そっと彼女に近づくと、家永は困ったものであったが、屈んでから、椅子に座る彼女の目線より下から見上げ、背中を撫でてやった。
花弁のような色。しかし、少しだけ官能的に厚ぼったい唇は、震えているが、背中をしばらく撫でていると、とめどなくボロボロ零れた涙も、少しずつおさまりゆく。それでも震えて、あかりは必死に言葉を零した。「誰かに、ご飯を、作ってもらうの」
「出来たてなの、とっても、久しぶりで」
「そうか」
「すごく美味しい、です。お母さん、の、こと……思い出して」
「……ああ」
「父の行方、とか。父の存在が、ないことで……散々、冷たい言葉、かけられて」
「ああ」
「でも、家永さん、どうでもいいって、言ってくれたから」
「そうだな」
「それが、嬉しかった、です」
「……そうか」
ぐしゃぐしゃに泣いている彼女に、息をついたが。そっと頬へ手をぴたりとくっつけ、親指で涙を拭ってやる。それでも止まらない涙ではあるが、先ほどよりは勢いがおさまってきた。洪水のように溢れて零れていたそれは、落ち着きを取り戻しつつある。
あかりは、ゆっくりと泣いて閉じていた目蓋を開いた。長く黒々とした睫毛が濡れており、些細でいてとても大切な喜びを知ったその瞳には、少しだけ困っている自分──家永が映っている。
「俺が居るなら……大丈夫、って」
「ああ」
「それ、とても……嬉しいです」
「……そうか……でも、そうだろ」
「はい……。家永さんは……」
「……なんだ」
「わたしの辛い気持ちを、取り除いてくれたり。美味しいご飯を作ってくれたり、母譲りの髪を、褒めてくれたり、なんだか、……なんと言うか……」
「ああ」
「魔法の人です。」わたし、なんでもします。家永さんに報いたいです。だから、お気を許されている間でかまいません。お傍に置いて下さい。──あかりはそう乞うが、家永は視線を外して鼻で息をついた。
(冷たく突き放してやる場合でも状況でも、なんでもないよな。これは。)
家永は、次第に目を合わせて小さく笑い、あかりの頭を撫でた。
「魔法の人、か」
「はい」
「ああ。そうだな。俺は、お前にこれから魔法をかけてく」
「……はい」
「だからって別に、畏まったり、気を遣い過ぎることもねえから。てか、そっちのほうがやり辛いっての」
「……はい……」
「これからよろしくな。あかり」
「……よろしく、お願いします」
名前を呼ばれただけで、心が、水を吸う海綿のように豊かに潤ってゆく。あかりは瞳を細めて微笑んだが、それは目の前の男があまりに眩しく、ある意味で尊い存在になったからだ。この人のためならなんでもする。なんでもできると思うの、お母さん。──きっと、自分を捨ててでも、幸せになってほしいと、無償の愛を捧げたくなるような存在になりゆくのだろう。おぼろげにそう自覚していたあかりは、安堵の息をつくと同時に目蓋をそっと閉じると、また頭を撫でられた。その行為はまるで、心臓を羽毛で撫でられているような心地だとも、錯覚できるほど、温かく優しいものだった。
next.
半熟卵を突くと、家永が割ったそれと同じように、ドロリ。黄身が溢れ出てきた。この卵は、この姿こそが美しいのだと訴えるように、部屋の白熱灯の明かりに反射し、ぬらぬらと光っている。クリームソースとパスタ、卵をしっかりとかきまぜてから一口。口内に、幸せな味が広がる。家永の言う通り、“美味いメシ”だ。それでいて、自分で得意料理と言うだけあってとても出来が良い。一口だけ口にした、ただそれだけなのに。
「おい」
込み上げてくるものの正体は、わかっていた。あかりは涙を浮かべて打ち震え、どうした。と声をかけてくれる家永に、なんでもない。と首を振って無言で訴える。言葉が出ないのだ。咽喉元で「なんでもありません」という言葉がつっかかっている。そして、口から放たれてくれない。
「まずかったか?」
「……」
「じゃあ……なんだよ。どうした」
カチャ。スプーンとフォークを一旦置いて休ませ、家永はそっと手を伸ばしてあかりの髪を撫でる。気分でも悪いのか、と問いかけても、首を横に振るだけ。悲しいのか、と問いかけても、あかりは首を横に振るだけだ。
「……から、です」
「……きこえねえ」
絞りだすように言うか細い声は、小さい。噛みしめた歯の間から、やがて嗚咽がほとばしり出てくる。落ち着けと言って席を立ち、そっと彼女に近づくと、家永は困ったものであったが、屈んでから、椅子に座る彼女の目線より下から見上げ、背中を撫でてやった。
花弁のような色。しかし、少しだけ官能的に厚ぼったい唇は、震えているが、背中をしばらく撫でていると、とめどなくボロボロ零れた涙も、少しずつおさまりゆく。それでも震えて、あかりは必死に言葉を零した。「誰かに、ご飯を、作ってもらうの」
「出来たてなの、とっても、久しぶりで」
「そうか」
「すごく美味しい、です。お母さん、の、こと……思い出して」
「……ああ」
「父の行方、とか。父の存在が、ないことで……散々、冷たい言葉、かけられて」
「ああ」
「でも、家永さん、どうでもいいって、言ってくれたから」
「そうだな」
「それが、嬉しかった、です」
「……そうか」
ぐしゃぐしゃに泣いている彼女に、息をついたが。そっと頬へ手をぴたりとくっつけ、親指で涙を拭ってやる。それでも止まらない涙ではあるが、先ほどよりは勢いがおさまってきた。洪水のように溢れて零れていたそれは、落ち着きを取り戻しつつある。
あかりは、ゆっくりと泣いて閉じていた目蓋を開いた。長く黒々とした睫毛が濡れており、些細でいてとても大切な喜びを知ったその瞳には、少しだけ困っている自分──家永が映っている。
「俺が居るなら……大丈夫、って」
「ああ」
「それ、とても……嬉しいです」
「……そうか……でも、そうだろ」
「はい……。家永さんは……」
「……なんだ」
「わたしの辛い気持ちを、取り除いてくれたり。美味しいご飯を作ってくれたり、母譲りの髪を、褒めてくれたり、なんだか、……なんと言うか……」
「ああ」
「魔法の人です。」わたし、なんでもします。家永さんに報いたいです。だから、お気を許されている間でかまいません。お傍に置いて下さい。──あかりはそう乞うが、家永は視線を外して鼻で息をついた。
(冷たく突き放してやる場合でも状況でも、なんでもないよな。これは。)
家永は、次第に目を合わせて小さく笑い、あかりの頭を撫でた。
「魔法の人、か」
「はい」
「ああ。そうだな。俺は、お前にこれから魔法をかけてく」
「……はい」
「だからって別に、畏まったり、気を遣い過ぎることもねえから。てか、そっちのほうがやり辛いっての」
「……はい……」
「これからよろしくな。あかり」
「……よろしく、お願いします」
名前を呼ばれただけで、心が、水を吸う海綿のように豊かに潤ってゆく。あかりは瞳を細めて微笑んだが、それは目の前の男があまりに眩しく、ある意味で尊い存在になったからだ。この人のためならなんでもする。なんでもできると思うの、お母さん。──きっと、自分を捨ててでも、幸せになってほしいと、無償の愛を捧げたくなるような存在になりゆくのだろう。おぼろげにそう自覚していたあかりは、安堵の息をつくと同時に目蓋をそっと閉じると、また頭を撫でられた。その行為はまるで、心臓を羽毛で撫でられているような心地だとも、錯覚できるほど、温かく優しいものだった。
next.