もういちど恋われたい
私はこんなに素敵な人の真心より、つまらない自尊心とくだらない意地を大切にしてしまったのか――後悔の念がこみ上げ、鼻の奥がツンと痛くなって涙があふれそうだ。
「ごめんなさい」
泣き顔を見せたくて来たわけじゃない。私は必死に堪えた。
「あなたに謝りたかったの」
彼はじっと私を見ている。
「私みたいな女のために心を砕いてくれてありがとう。いつも嫌な思いさせて、本当に申し訳なかったと……」
「なんで今頃わざわざ言いに来たの?」
聞いたことのない低い声だった。
「まだ好きだから」
ぽろっと口にしてしまい、私は慌てた。
「あの、違うの! ヨリ戻したいとかそういうことじゃなくて」
彼は大きな溜め息をついた。
「そういうことじゃないんだ?」
なんて言えばいいのか正解がわからない。
でも、勇気が必要なことはわかっている。
素直になる勇気が。
「いえ、そういうこと、です」
この人を失うのは嫌だと、痛いほど思った。
もう手遅れだとわかっているが、今ここで意志表明しなかったら、たぶん一生後悔する。
「もう一度チャンスをください!」
私は思いっきり頭を下げた。返事を聞くのが怖いのと緊張で、膝がガクガクしている。
「勝手だな、本当に」
「ごめんなさい」
「もういいから。とりあえず頭上げて」
おそるおそる顔を戻すと、彼の姿がひどくぼやけて見えた。
「ひどい顔」
彼の手が伸びてくる。
「喧嘩しても泣いたことなかったくせに」
頬に温もりを感じた時、この手に抱かれて眠った幸せな記憶がよみがえった。
恋しい気持ちが、涙と一緒にあふれ出て止まらなくなる。
「あの、これ……」
もう泣きながらでも仕方ない。
言うべきことはあとひとつだ。
私はギフトバッグを捧げ持ち、彼を見上げた。
「誕生日に贈るつもりで用意してたのに、渡せなくて心残りだったの。受け取って欲しい」
彼の胸もとに押しつけるように差し出す。
「もう同じ時計もらってるみたいだし、捨てるなり売るなりしていいから」
「売るなんて、品のないこと言うなよ」
また大きな溜め息をつかれて身がすくむ。
彼は自分の手首から時計を外し、私の手をつかんだ。
「これはもらったんじゃなくて、自分で買ったものだから」
そう言いながら、彼は私の手首に男物の腕時計を巻き、ギフトバッグから箱を取り出して開いた。
中身を街灯の明かりで確認すると、プッと小さく吹き出す。
「まったく同じ時計じゃないか」
彼は可笑しそうに言って、新品のそれを自分の手首にはめた。
「交換してあげるよ」
こんな笑顔を見たのは久しぶりで、別れ話をされる前からずっと、私はこれが見たかったんだとわかった。
また涙がこみ上げてくる。
「そんな顔じゃ電車は乗れないね。タクシー代ぐらい出してあげるよ」
彼は空車を探すそぶりで車道の方を向いた。
「また好きになれるかどうか、今は正直わからない。それでもいいなら、今度ゆっくり食事でも行こう」
この人が淡々と話すのは照れ隠しだと、私は知っている。
「どうしよう……嬉しい」
「いや、まだ喜ぶの早いから」
「それでも嬉しい」
けんもほろろに追い返されるパターンまで覚悟して来たのだ。
また私を好きになってもらうための努力を、惜しむつもりはない。今度こそ彼を失望させたくない。
私は彼がつかまえてくれた車に乗り込み、素直にタクシー代を受け取った。
「ありがとう」
私の話を聞いてくれて。
腕時計を交換してくれて。
また会うって言ってくれて。
「本当にありがとう」
私はうまく笑えているだろうか。
泣き腫らして化粧も崩れ、さぞかしひどい状態に違いないが、次に会う時まで覚えていて欲しいのは、泣き顔ではなく笑顔だ。
「またね」
彼はうなずき、連絡すると言って手を軽く上げた。
走り出したタクシーの窓から、小さくなっていく彼の姿を瞬きする間も惜しんで見つめる。
また会えると思うだけで幸せを感じた。
この先のことを考えると緊張で手足の先がぞわぞわしてくる。彼の心を取り戻すのは簡単じゃない。一度、愛情が消えてなくなるほど幻滅させたことは事実なのだから。
それでも私は頑張りたい――ガサツなだけで可愛げのない女は卒業する。
「大丈夫」
私は手首に唇を寄せて目を閉じる。まぶたの裏には彼の笑顔がしっかり焼き付いていた。
ほんのり彼の体温を残したこの腕時計が、きっと私を導いてくれる。
〜終〜