真田、燃ゆ
その日の夜更け、忍び装束に着替えて城を出た。
主命を果たせなかった以上、忍びの里には戻れなかった。
幸村は、
「そなたを手引していた徳川の手の者は、才蔵に云いつけて始末させた。どうせ戦が始まれば、皆それどころでは無くなる。戦が済んで、ほとぼりが冷めてから里に戻れば、殊更咎める者など居まい」
そう云ってくれたが、もう徳川の手先になって働くのは御免だった。
「お下知を、頂戴したく存じます」
何故そんなことを口にしたのか。
当然、幸村は「徳川を裏切ると申すか」と、険しい視線を向けて来た。
徳川を裏切るのではない、あなたと共に居たいのだ。
だがその想いを、どうしても言葉にすることが出来なかった。
言葉にならなかった想いが、目から溢れて、幾筋もの涙になって頬を伝った。
頬を伝う涙を感じながら、もう自分は忍びでは無くなったと、痛いほど感じた。
暗殺に失敗したどころか、暗殺対象の男に懸想してしまうようでは、もはや忍びとは呼べまい。
唇を噛み、どうして良いかすら分からず泣き続ける自分に、幸村は暖かな声で、こう告げてくれた。
「下知と云う訳ではないが、何処にも行く当てが無いなら、上田を目指すが良い。郷の者には知らせておく故、無体な真似はされまい」
そして、震える肩を抱き締め、そっと唇を吸ってくれた。
「楓。儂は死ぬるが、そなたは生きよ。これは下知では無く、儂の願いとして、聞き届けて欲しい」
幸村の言葉が耳朶に触れると、もう心の最後の箍まで外れてしまって、いつまでも、ただの小娘のように泣き続けていた。