君との恋の物語-mutual dependence-
次の日、私は詩乃に連れられて病院の待合室にいた。

病院。そう、心療内科。

本当は気が進まなかったんだけど、そこは詩乃も、譲ってはくれなかった。

しょうがないか、喋れなくなってしまったのも事実だし。

ごめんね、詩乃。

私自身は、あんまり無理をしている自覚はなかった。

でも、こんなことになってしまった。

ごめんね。

『さぎり、何か飲むか?』

隣の詩乃が小声で話し掛けた。

「んん。大丈夫。」

よかった。今日はちゃんと喋れている。

「ありがと」

土曜の午前中だからか、病院の待合室は混み合っていた。

かれこれ1時間くらいは待っている。

ここにはいろいろな年代の人がいて、皆、喋らない。

中には私よりずっと年下の子もいて、携帯をいじったり、ゲームをしたり、テレビを見たりしている。

でも、誰も喋らない。

静かで、重い空気の中、時々診察室から聞こえてくる声だけはやたら明るくて、変な感じだった。


診察室の扉が開いて中から中年の男性が出てきた。

一度振り返って室内に向かって一礼し、はっきりとお礼を言っている。

その表情は、少しだけ、入っていった時よりは明るくなっているように見えた。

私は、中でどんなやり取りがされているのか気になって仕方がなかった。

どんなこと聞かれるんだろう?

どんなふうに答えたら良いんだろう?


そんな私の表情を見て察したのか、それとも私の番が近づいてきたからなのか、詩乃がまた小声で声をかけた。

『ありのままを話せばいい。答えられないことは、答えなくていいから。俺も一緒に入ろうか?』

「んん、大丈夫。ありがと」



いよいよ私の番。

診察室から名前を呼ばれたので、返事をして立ち上がった。

身体は思ったよりもふわふわしていてて、でも足だけはやたら重くて、変な感じだった。

診察室に入ると、メガネをかけた優しそうな男の先生がいた。

年齢は、多分40代半ばくらい。

直前までカルテを見ていた先生は、こちらに体を向けながら私に質問した。

『どうされましたか?』

「昨日、声が出なくなりました。」

先生はほとんど表情を変えずに答える。

『それは大変でしたね。昨日の、いつくらいからですか?』

「15時?くらい?からです。」

『そうですか。話せるようになったのは、今朝からですか?』

「はい、起きたら話せました。」

『そうですか、それならよかった。』

先生は、そう言って少し微笑んだ。

あぁ、安心する。

『なにか、思い当たるきっかけはありますか?』

あると言えば、あるし、ないと言えばない。

こう言う時、なんて答えたら良いんだろう?

『大きな出来事でなくて構いません。ありのままを話してみましょう。』

ありのまま…。

「昨日は、学校の授業が終わって、恋人の家に行きました。」

話始めてみると、意外とすらすら言葉が出てきた。

私はそれを、別の誰かの話を聞くみたいに聞いてた。

あんまり味わったことのない感覚だった。




『ありがとうございます。よく、わかりましたよ。』

先生は、ずっと穏やかに微笑んで聞いてくれていた。

『いろいろ重なってしまって、大変でしたね。』

そうですか?悪いのは私ですよね?

私が、自分でペース配分ができないから

『山本さんは何も悪くありません。それどころか、他の誰も悪くありません。』

『少し疲れてしまっただけです。何も心配入りませんよ。』

そんな先生の言葉に反して、私は不安だった。

「私、うつ病ですか?」

こんな私でも、病名くらいは聞いたことがある。

『んー、どうしても病名が必要ですか?』

病名が必要というよりは、私は自分の状態が知りたかった。

この正体不明の不安を抱えていたくなかった。

「はい。はっきりとおっしゃってください」

先生は少し困った顔をしたけど、すぐにフッと笑って答えてくれた。

『今、はっきりと病名をつけることはできませんが、強いて言えば、うつ病予備軍。といったところでしょうか。』

予備軍?

『今は、はっきりとうつ病と名前つけるほどの状態ではありません。』

「そうなんですか?」

『はい。今の症状も、一過性のものだと思われます。ですから、無理に直そうとする必要はありません』

先生は続ける。

『辛いとは思いますが、人にはそれぞれペースがあります。それを無理に誰かに合わせようとしていたら、誰だって苦しくなります。今回の山本さんは、まさにそう言った状態です。』

『ですから、誰も悪くありません。できることなら、サークル活動は少しお休みしたほうがいいと思いますが、それは難しいですか?』

「はい、難しいです。私自身もお休みしたいですが、あまり人を巻き込みたくないので。」

先生は微笑んだまま続ける。

『そうですか、では、今日ここに来たことを話せる人は、まわりにいますか?』

「はい、恋人が、おりますので。」

『でしたら、彼にだけは今の山本さんの状態をしっかり伝えておきましょう。サークルのメンバーには、ちょっと体調が悪い、くらいにお話ししておけば良いと思います。』

そうなの?そんなことだけでいいの?

『山本さん、先ほども言いましたが、直す必要はありません。山本さんは、自身のことをよくわかっているようなので、それを認めてあげればいいだけです。』

…?

『疲れたら疲れた、休みたいときは休みたい、と、口に出して言ってみる。それだけでも全然変わってくると思います。我慢は、禁物です。』

「はい」

『これからここに通うかどうかも、今決めなくて良いと思います。お話ししたいことができたらいらっしゃる。そのくらいで大丈夫です。』






先生はそう言ったけど、私の気持ちは不安でいっぱいだったので、次の週に予約を取って行くことにした。

詩乃は何も聞かなかったけど、私は診察の内容をそのまま話した。

『なってしまったものは仕方ない』

と言ったっきり、その話題には触れなくなった。

詩乃のことだから、多分私があんまり深刻に考えないようにあえて聞き流すみたいにしてくれたんだと思う。

でも、私は、詩乃だけは、一緒に受け止めて欲しかった。

一緒に考えて欲しかった。

でも、こんなことを言っちゃダメ。

忙しいのに、付き合ってくれたんだから。心配してくれたからこそ、病院に連れて行ってくれたんだから…。

そう、詩乃は、悪くない。

私は、自分に言い聞かせた。


今思えば、この時にちゃんと話をしなかったのが、一番よくないことだった。

これから私達の気持ちは少しずつずれていくことになる。
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