敏腕パイロットは純真妻を溢れる独占愛で包囲する
 福岡での夜は素敵な思い出として可奈子の胸に刻み込まれたが、でもその時点でそれ以上の進展を予感させるものではなかった。

 あくまでも彼は上司であり、たまたま一緒に食事をしただけなのだ。

 すごく素敵な人だと思ったけれど一夜明けて東京へ戻ってみれば、可奈子にとっては遠い存在であることに変わりない。勤務中にパイロット姿で搭乗する姿を見るたびに、あの夜のことは夢だったのではないかと、思うくらいだった。

 そんな彼と思いがけずまた話をする機会が訪れたのは、二週間が過ぎた頃だった。

「伊東さん」

 仕事終わり人気のない廊下をロッカールーム目指して歩いていた可奈子は、声をかけられて振り返る。

 窓から差し込む夕日の中に、制服姿の総司がいた。

「如月さん……」

可奈子の胸がドキンと跳ねる。

反射的に周囲を見回した。べつに悪いことをしているわけではないけれど、誰かに見られるのは具合が悪い、そんな気がするからだ。彼と食事をしたことを、可奈子は誰にも話していない。

「おつかれさま、今日はあがり?」

「はい。お、おつかれさまです」

 ドギマギしながら可奈子は答える。

 そもそもこうやって会社で声をかけられたことが意外だった。

可奈子が福岡での出来事を秘密にしているように、彼の方も可奈子とのことを誰にも知られたくないだろうと思っていたのだ。

 少なくとも可奈子の方はこうやって話をしているところを誰かに見られたりしたら、次の日には同僚たちから質問攻めにあうだろう。

 だが彼はそんなことはまったく気にしていないようだった。

「どう? あれからどこかへ行った?」

 世間話程度に、可奈子の食べ歩きに関するその後の展開を聞きたがった。

「あ、あれからは、まだ……」

 ヒヤヒヤしながら可奈子は答える。彼の背後を、ちらちら見て誰も来ないことを確認する。

 すると総司はくすりと笑い「おいで」と言って廊下を進む。そして非常階段へ繋がると思しき扉を開けた。

「わぁ」

 扉が開いたその先にある光景に、可奈子は吸い寄せられるように外へ出て手すりに掴まり声をあげる。

 滑走路に並ぶたくさんの航空機が、夕日に照らされて輝いている。

「綺麗……。意外です。ここから滑走路が見えるなんて」

「穴場だよ」

 ゆっくりとドアを閉めながら、総司が微笑んだ。

「休憩中によく来るんだ」

これもまた意外な話だった。
パイロットには専用の休憩室が用意されている。彼らの体調は航空機の安全な運行に直結するからだ。それなのにこんな場所で休憩時間を過ごしているなんて。

「人が来ないからね。ひとりになりたい時に最適なんだ」
 
手すりにもたれかかり目を細めて気持ちよさそうに総司は滑走路を見つめている。風になびく少し茶色い髪に日の光が透けて綺麗だった。
 
可奈子の胸が高鳴った。
 
もしかしたらここは、彼にとって秘密の休憩場所なのだろうかという思いが頭に浮かんだからだ。

 もちろんそれを可奈子におしえたからといって、特別な意味などはないだろうけど……。

「もし近々大阪へ行くなら、いい店を紹介しようと思ったんだけど」

 振り返って、総司が言う。前回福岡で可奈子が話した話題の続きだった。

 総司から世界中のグルメの話を聞いた後、可奈子の方も自身の趣味である食べ歩きの話をした。

今まで行ってよかった場所、食べたもの。

次は関西方面に行こうと思っていると言ったことを彼は覚えていてくれたのだ。
 嬉しかった。

 勤務中に見かける彼は、いつも堂々としていてどこか近寄りがたい空気をまとっている。可奈子はそんな彼を見るうちにあの夜の出来事は夢だったのかもしれないと思うようになっていた。

 でもそうではなかったのだ。

 ふたりで過ごしたあの時間は夢なんかじゃなくて現実のことだった。彼も覚えていてくれた。

 ただそれが嬉しかった。

「伊東さんが行ってみたいと言っていた串カツの店なんだけど」

「お、おしえてほしいです」

 少し勢い込んで可奈子は言う。

 すると総司はにっこり笑って、でもすぐに少し申し訳なさそうな顔をした。

「ただそこもこの間のお店と同じで、本当なら女の子におススメできる店じゃないんだけど」

「大丈夫です。この前のお店の雰囲気、私好きでした。なんだか懐かしい感じがして」

 ガヤガヤと常連客がもつ鍋を楽しむ店内はとても居心地のいい空間だった。

まるで田舎にあるおばちゃんの家へ帰ったような空気の中、不思議なほど彼はそこに馴染んでいた。
 
今度の店はどんな店なのだろう。

 その店にいる時も彼はこの前みたいに、リラックスしているのだろうか。
勤務中には絶対に見られない柔らかな笑みを浮かべて……。

 と、そこまで考えて、可奈子は自分自身に戸惑いを覚える。

 頭の中に浮かぶ彼の隣に、なぜか自分がいたからだ。

この間のようにふたりはカウンターに並び、楽しそうに笑っている。

「ただ、今度の店はひとりでは行かないように」

 総司の言葉に、心は少し外れたところにありながら可奈子が首を傾げると、彼は難しい顔になった。

「繁華街から一本外れた場所にある。客層も……」

 夕日を背にする彼を見つめながら、少しぼんやりとして可奈子はまた別のことを考える。

 可奈子が最近凝っている気ままなひとりの食べ歩き。でもそれがなぜかひどくつまらないことのように思えた。

 彼が紹介してくれるならきっとその串カツ屋は美味しくていいお店なのだろう。
だったらせっかくなら誰かと一緒に行きたかった。
 いや"誰か"ではなくて、この前みたいに地方にステイになった彼と……。

 と、そこで可奈子はまた戸惑い動揺する。

 記憶にある限り男性に対してこんな風に感じるのははじめてのことだった。

 何度か参加した本社社員との合コンでは、いい人だなと感じる人はいても、"また会いたい""もっと話をしたい"と望んだことはなかった。

「……さん、伊東さん?」

 反応の薄い可奈子に、総司が首を傾げている。背の高い彼を見つめて、可奈子はなんだか急に絶望的な気持ちになる。

 両親の離婚が原因で、学生時代は恋愛に臆病になっていた。

 最近になって相手を探そうという気になったけれど、いまひとつ男性に対して興味が持てないでいた。
もしかしたら自分は一生ひとりなのかもしれないと思ったこともあるくらいだ。

 そんな自分がようやくそういう気持ちになれたのに、よりによって相手が彼だなんて。
 あまりにも高望みすぎる。

 この間みたいに偶然一緒になったならともかくとして、普通なら話をする機会さえない相手だ。

「……わかりました。友達がいる時に行きます」

 沈んだ気持ちのままうつむいてそう言うと、総司がぷっと噴き出した。

そのままくっくと肩を揺らして笑い続ける彼に、可奈子は首を傾げる。

「……? 如月さん……?」

 総司が笑いながら口を開いた。

「そんなにがっかりしなくても! 串カツは他の店でも食べられるだろう?」

「え? ……あ!」

 彼は可奈子が串カツ屋にひとりで行くなと言われたことで落ち込んでいると思ったのだ。

 可奈子は真っ赤になってしまう。

なんて食い意地の張ったやつだと思われただろうか。
「ど、同僚は同じグランドスタッフだから休みを合わせるのが難しいんです。学生時代の友達は割引きが効かないから、誘いづらいし……」

 フライトスケジュールに合わせなくてはならないパイロットやCAとは違いグランドスタッフの勤務はシフト制で休みの希望を出すことはできる。

でも同期で業務内容が重なる由良とは他のメンバーの都合上、休みをずらして取ることが多いのだと可奈子は慌てて言い訳をする。

 すると総司がくっくと笑いながら、意外な言葉を口にした。

「なるほどね。じゃあ、この前みたいに、俺が付き添おうか。大阪にステイの時にでも」

「…………え⁉︎」

 ついさっき、ありえない、高望みすぎると諦めたばかりの希望を思いがけず口にされて、可奈子は目を丸くする。

 総司が肩をすくめた。

「伊東さんに、休みを合わせてもらう必要があるけど」

「あ、合わせますっ!」

 可奈子は思わず大きな声を出す。

 総司が綺麗な目を瞬かせて、すぐにフッと微笑んだ。

「じゃあ、ちょっと待って」

 内ポケットから携帯を取り出して自身のフライトスケジュールを確認する彼の隣で、可奈子はドキドキとする胸を持て余していた。

 ただ食事をするだけ、あくまでも彼は食い意地な張った部下の付き添いをしてくれるだけなのだといくら自分に言い聞かせても高鳴る鼓動は治らない。

 どのような理由でもまた一緒に彼と過ごせるのだということが、信じられなくて嬉しかった。

「念のため、連絡先をおしえてくれる?」

 促されるままに、総司に番号とアドレスを告げながら、可奈子は自分が新しい一歩を踏み出したのだと感じていた。
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