敏腕パイロットは純真妻を溢れる独占愛で包囲する
美鈴
「いい気にならないで」

 休憩中の女子トイレで手を洗っていた可奈子は、突然悪意ある言葉を投げつけられてハッとする。

真正面の大きな鏡に自分と並んでメイクを直している美鈴の姿があった。勤務中はきっちりと結い上げているシニヨンを解いて、カフェオレ色のウェーブがかった綺麗な髪をふわりと肩へ流している。

勤務が終わって私服に着替え、帰るところのようだ。

入念に身支度をしているということは真っ直ぐ家に帰らずにどこかへ行く予定なのだろう。

 整った綺麗な顔立ち、一ミリの隙のないメイク、平然とした表情からはとても今毒を吐いたようには思えない。

でもトイレにいるのは美鈴と可奈子ふたりだけなのだから、さっきの言葉が彼女によるものであるのは間違いはなかった。

「ただの棚ぼたなのに、浮かれているのが見え見えでみっともない」

 もう一度口を開いた彼女は、今度は鏡越しにはっきりとこちらを睨んでいる。

総司との結婚について言っているの間違いなかった。
 可奈子は唇を噛み、黙ってハンカチで手を拭いた。

 彼女とまともにやり合うつもりはまったくないし、なによりも今の不安定な気持ちを抱えたまま、誰かと総司との結婚について話をするのは避けたかった。

 逃げるが勝ちだ。

 無視をしてさっさとこの場を去ってしまおうと、可奈子は入口へ向かう。

 でもそれを美鈴は許してくれなかった。

ドアに手をかけた可奈子の背中に、また矢を放つ。

「なにも知らないくせに。如月さんは仕方なくあなたと結婚したのよ」

 その言葉に、可奈子は立ち止まり振り返る。美鈴が憎々しげに可奈子を見据えていた。

 自分と総司の結婚にはまったく関係ないはずの人物から出た意味深な言葉。

"仕方なく結婚した"

 まるであの日記の記述を彷彿とさせるような言葉だ。

 なぜ彼女はこんなことを言うのだろう。

 まさか、総司の計画の目的についてなにか知っているのだろうか。

「……どういう意味ですか」

 どくんどくんと不吉な音を立てる心臓の音を聞きながら可奈子は美鈴に問いかける。

 美鈴がそれを鼻で笑った。

「あなた、なにも知らないのね。ま、あたりまえといえばあたりまえか」

 そう言ってくすくす笑う彼女を可奈子は言葉もなく見つめた。

 この口ぶり。

 では彼女はやはり総司の本当の目的を知っているのだ。

「ふふふ、かわいそうに」

 頭の中は真っ白で、目の前が真っ暗だ。

 ついさっきまでわずかに残っていた希望の光、すべては自分の思い過ごしなのだという可能性が今この瞬間に消え失せた。

 代わりに、こんなのドラマの中だけの話だ、現実にはありえないと思いつつも今の状況にぴったりなあの事実が、可奈子の中で急に現実味を帯びてくる。

 茶色い髪を揺らして笑う美鈴の姿が、ドラマの中の美女と重なった。

 だってそうじゃないと、彼女のこの言葉は説明がつかない。

少なくとも彼女は結婚について、可奈子の知らないなにかを知っているのは確かなのだから。

 ……美鈴と総司は裏で繋がっているのだろうか。

 唖然とする可奈子に美鈴がカツカツと靴音を鳴らして歩み寄り、押し退けるようにしてドアを開けた。

「ふふふ。いつまで続くのかしら、その結婚」

 捨て台詞を吐いて出ていくのを、可奈子は微動だにできずに見送る。
バタンと閉まるドアの音がどこか遠くに聞こえた。
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