敏腕パイロットは純真妻を溢れる独占愛で包囲する
格差婚
ざわざわと騒がしい国内線の搭乗口で、可奈子は同僚のグランドスタッフたちとともに搭乗準備を進めている。
ロビーにはたくさんの乗客がどこかソワソワとして、飛行機への搭乗を今か今かと待っていた。
きゃっきゃと嬉しそうに声をあげる幼い子供を連れた若い夫婦、スーツ姿のビジネスマン、ちょうど卒業旅行シーズンだから大学生と思しきグループも多かった。
その中に、ひときわ緊張した面持ちでぽつんと座る十歳くらいの男の子がいる。
可奈子はカウンターの手元の画面で乗客名簿の最終チェックをしながら、彼に気を留めていた。
彼は『ジュニアカスタマー』というプランを利用している乗客だ。
ひとりで旅をする小学生を、チェックインから到着空港まで、株式会社NANA・SKYのスタッフが責任もって預かるというプランで、行き先の福岡空港では彼の祖母が待っている予定だった。
さっきチェックインを担当したスタッフが彼をここまで連れてきて、可奈子に引き継いだ。彼を機内に案内するまでが加奈子の担当だった。
乗客名簿のチェックを終えて、可奈子は業務を一旦同僚に任せて、男の子の元へ歩み寄る。膝を折って視線を合わせて声をかけた。
「もう少ししたら乗れるから、待っていてね」
にっこりとしてそう言うと、「はい」と答えが返ってくる。
「お手洗いは大丈夫? 機内にもあるけど、乗ってすぐには使えないの」
「大丈夫です」
そのハキハキとした受け応えに、なかなかしっかりした子だなと可奈子は思う。
もっともこのジュニアカスタマープランを利用する乗客は、彼くらいしっかりした子が多いのだが。
「向こうではおばあちゃんが待ってるの?」
緊張するのは当然でも、せっかくだから少しでも空の旅を楽しんでもらいたい、そう思い可奈子は彼の緊張を解こうと問いかける。
彼は頬を染めて頷いた。
「はい」
「そう、楽しみだね」
「はい」
少し照れたように微笑む彼に、可奈子も少し安心する。
「準備ができたら呼ぶからね」と告げてカウンターへ戻った。
カウンターでは、現段階でグランドスタッフがやるべき仕事はすべて完了しているようだった。
「よし! 搭乗準備オッケー。あとは、王子の到着を待つだけっと」
同僚の西森由良(にしもりゆら)が小さな声で呟いて、意味深な目で可奈子を見る。可奈子はそれには答えずに彼女から目を逸らした。
今、搭乗手続きを進めている千歳便に搭乗するパイロットが可奈子の夫、総司だということをからかわれているからだ。
「ふふふ、楽しみだね」
ちゃかして、そんなことを言う由良を可奈子はジロリと睨んだ。
「由良……。やめてよ、もう」
もっとも、由良でなくても総司のことを"王子"と呼ぶ社員は社内では少なくない。
株式会社NANA・SKY始まって以来のスピードで機長に昇格した彼は、エリート中のエリートで、しかも見た目がずば抜けカッコいい。
少し茶色い真っ直ぐな髪と同じ色の瞳がまるで童話の中の王子さまみたいだなどと言われていて、可奈子が入社する前からその呼び名が定着していた。
CAならともかく、本来なら可奈子たちグランドスタッフにとっては雲の上どころか、星の向こうの存在だ。
直接言葉を交わすことも滅多にない。
だから彼に憧れるグランドスタッフは皆、彼の搭乗する便の手続きを担当する日をとても楽しみにしていた。
この広い空港には、何万人というひとが働いているのだ。
そうでもないと姿を見ることもままならない。
可奈子は、まだなにか言いたげな由良に気が付かないフリをして滑走路に視線を送り目を細めた。
今日は抜群の天気だった。
全面ガラス張りの大きな窓の向こうには青い空の元、いつでも飛び立つことができるよう準備万端に整備されたジェット機が、太陽の日差しに白い翼を煌めかせている。
今年二十五歳、NANA・SKYに入社してまる三年がたつ可奈子にとっては見慣れた光景だが、それでも胸がドキドキして心が浮き立つのを止められない。
大学時代、航空会社を目指すことに迷った時期もあったが、この仕事を選んでよかったと今は心から思っている。
しばらくすると機体を運行する乗務員、パイロットとCAたちが廊下の向こうからやってくる。
先頭は、総司だった。
若い副操縦士を連れている。
白いシャツに紺色のネクタイをきちんと締めて、ジャケットの腕ぐりには機長であることを示す四本のゴールドライン。その落ち着いた佇まいと堂々と歩く姿に、すれ違う人たちが思わずといった様子で振り返っていた。
可奈子は慌てて目を伏せる。
毎日家で会っていても、条件反射のように胸が高鳴る。とても直視できなかった。
由良が忍び笑いを漏らしながら、可奈子の脇腹を肘で突く。
他のグランドスタッフたちは、うっとりと総司を見つめてから、やや残念そうに可奈子の方をチラリと見た。
可奈子は心の中でため息をつく。
ふたりはつい十日前に結婚式を挙げたばかりなのだから、このような周囲の反応もある程度は仕方がない。
だとしても早く落ち着いてほしかった。
夫婦で同じ航空会社なのだから、こんなことはこれからも数えきれないくらいある。そのたびにこんな反応をされたのでは、とてもじゃないが身が持たない。
そのうちに、総司たちがカウンターのすぐそばまでやってきた。搭乗口へ向かう彼らにグランドスタッフ一同は頭を下げる。
「いってらっしゃいませ」
「ありがとう、いってきます」
聞き慣れた低い声が返ってきた。
その声につられるように目を上げると、通り過ぎる寸前の総司の視線と目が合った。
わずかに緩む彼の目元。
可奈子の鼓動がどくんと跳ねた。
続いてすぐにCAたちが可奈子たちの前を通り過ぎる。
「いってらっしゃいませ」
もう一度さっきと同じように頭を下げるが、今度は返事は返ってこなかった。
彼らの後ろ姿がボーイングビレッジに消えたのを確認して、可奈子はホッと息を吐いた。
それにしても。
可奈子が着ている制服と彼女たちCAの制服は、デザイン自体は変わらない。違うのはスカーフの色くらいなのに、どうしてあんなにも華やかなのだろう。
皆、すらりとしていて、美しい顔立ちで。
対する可奈子は"普通"のひと言だった。
空港で働く者のマナーとして、勤務中はきちんとメイクをしているから、それなりに見えるはず。
でも普段は、黒目がちの目とふっくらとした頬、やや低めの身長のせいで、実年齢よりも歳下に見られがち。
あの美しいCAたちとは雲泥の差だった。
可奈子と総司の結婚は、社内の女性社員たちを一時パニックに陥れた。
陰で"格差婚"とまで言われている。
ひどい話だとも思うけれど、それはすべて相手が可奈子だからだろう。
もしあの華やかなCAたちのうちの誰かだったとしたら……。
と、そこまで思いを巡らせて、その卑屈な考えに可奈子は強制的にストップをかける。
今は勤務時間中、そんなことを考えている暇はない。
ちょうど機内から乗客の搭乗許可が下りた。可奈子は気持ちを切り替えて、ジュニアカスタマープランの男の子の元へ歩み寄った。
今から基準に従って優先搭乗が始まる。
彼もその対象だ。
「いよいよだよ。楽しみだね」
頬を染めて目を輝かせている男の子を連れて、可奈子はボーディングブリッジを歩いていく。
航空機の入口には、山崎美鈴(やまさきみすず)というCAが待っていた。
彼女は社内でもひときわ目立つ存在だ。
美人揃いのCAの中でも飛び抜けた美貌と語学力を兼ね備えたまさに才色兼備というべき彼女は、一時期、総司との関係を噂されていたこともある。
美鈴が可奈子に気が付いて、形のいい眉を寄せた。
「おつかれさまです。ジュニアカスタマープランのお客さまをお連れしました」
彼女の放つどこか威圧的な空気に負けないように可奈子は言う。
美鈴が一瞬目を細めて不快そうに可奈子を見る。でもすぐに男の子に向かって、優しげな笑みを浮かべた。
「こんにちは、機内では私が担当します。よろしくね」
そして可奈子にはなにも言わずに、さっさと彼を機内へ連れていってしまう。
「飛行機ははじめてかな。困ったことがあったら、なんでも言ってね」
美鈴に声をかけられながら、機内へ乗り込む男の子の背中に可奈子は声をかける。
「いってらっしゃい。よい旅を」
振り返って会釈をする男の子の隣で、美鈴がチラリとこちらを見た。
明らかに敵意を含んだその視線に、可奈子は身体を強ばらせる。
無意識のうちにギュッと手を握り締めた。
「ふふふ、飛行機、楽しみだね」
「ねー、久しぶり」
他の乗客が後ろからやってくる気配にハッとして振り返る。
小さく深呼吸をしてから、可奈子はボーディングブリッジを戻り始めた。
ロビーにはたくさんの乗客がどこかソワソワとして、飛行機への搭乗を今か今かと待っていた。
きゃっきゃと嬉しそうに声をあげる幼い子供を連れた若い夫婦、スーツ姿のビジネスマン、ちょうど卒業旅行シーズンだから大学生と思しきグループも多かった。
その中に、ひときわ緊張した面持ちでぽつんと座る十歳くらいの男の子がいる。
可奈子はカウンターの手元の画面で乗客名簿の最終チェックをしながら、彼に気を留めていた。
彼は『ジュニアカスタマー』というプランを利用している乗客だ。
ひとりで旅をする小学生を、チェックインから到着空港まで、株式会社NANA・SKYのスタッフが責任もって預かるというプランで、行き先の福岡空港では彼の祖母が待っている予定だった。
さっきチェックインを担当したスタッフが彼をここまで連れてきて、可奈子に引き継いだ。彼を機内に案内するまでが加奈子の担当だった。
乗客名簿のチェックを終えて、可奈子は業務を一旦同僚に任せて、男の子の元へ歩み寄る。膝を折って視線を合わせて声をかけた。
「もう少ししたら乗れるから、待っていてね」
にっこりとしてそう言うと、「はい」と答えが返ってくる。
「お手洗いは大丈夫? 機内にもあるけど、乗ってすぐには使えないの」
「大丈夫です」
そのハキハキとした受け応えに、なかなかしっかりした子だなと可奈子は思う。
もっともこのジュニアカスタマープランを利用する乗客は、彼くらいしっかりした子が多いのだが。
「向こうではおばあちゃんが待ってるの?」
緊張するのは当然でも、せっかくだから少しでも空の旅を楽しんでもらいたい、そう思い可奈子は彼の緊張を解こうと問いかける。
彼は頬を染めて頷いた。
「はい」
「そう、楽しみだね」
「はい」
少し照れたように微笑む彼に、可奈子も少し安心する。
「準備ができたら呼ぶからね」と告げてカウンターへ戻った。
カウンターでは、現段階でグランドスタッフがやるべき仕事はすべて完了しているようだった。
「よし! 搭乗準備オッケー。あとは、王子の到着を待つだけっと」
同僚の西森由良(にしもりゆら)が小さな声で呟いて、意味深な目で可奈子を見る。可奈子はそれには答えずに彼女から目を逸らした。
今、搭乗手続きを進めている千歳便に搭乗するパイロットが可奈子の夫、総司だということをからかわれているからだ。
「ふふふ、楽しみだね」
ちゃかして、そんなことを言う由良を可奈子はジロリと睨んだ。
「由良……。やめてよ、もう」
もっとも、由良でなくても総司のことを"王子"と呼ぶ社員は社内では少なくない。
株式会社NANA・SKY始まって以来のスピードで機長に昇格した彼は、エリート中のエリートで、しかも見た目がずば抜けカッコいい。
少し茶色い真っ直ぐな髪と同じ色の瞳がまるで童話の中の王子さまみたいだなどと言われていて、可奈子が入社する前からその呼び名が定着していた。
CAならともかく、本来なら可奈子たちグランドスタッフにとっては雲の上どころか、星の向こうの存在だ。
直接言葉を交わすことも滅多にない。
だから彼に憧れるグランドスタッフは皆、彼の搭乗する便の手続きを担当する日をとても楽しみにしていた。
この広い空港には、何万人というひとが働いているのだ。
そうでもないと姿を見ることもままならない。
可奈子は、まだなにか言いたげな由良に気が付かないフリをして滑走路に視線を送り目を細めた。
今日は抜群の天気だった。
全面ガラス張りの大きな窓の向こうには青い空の元、いつでも飛び立つことができるよう準備万端に整備されたジェット機が、太陽の日差しに白い翼を煌めかせている。
今年二十五歳、NANA・SKYに入社してまる三年がたつ可奈子にとっては見慣れた光景だが、それでも胸がドキドキして心が浮き立つのを止められない。
大学時代、航空会社を目指すことに迷った時期もあったが、この仕事を選んでよかったと今は心から思っている。
しばらくすると機体を運行する乗務員、パイロットとCAたちが廊下の向こうからやってくる。
先頭は、総司だった。
若い副操縦士を連れている。
白いシャツに紺色のネクタイをきちんと締めて、ジャケットの腕ぐりには機長であることを示す四本のゴールドライン。その落ち着いた佇まいと堂々と歩く姿に、すれ違う人たちが思わずといった様子で振り返っていた。
可奈子は慌てて目を伏せる。
毎日家で会っていても、条件反射のように胸が高鳴る。とても直視できなかった。
由良が忍び笑いを漏らしながら、可奈子の脇腹を肘で突く。
他のグランドスタッフたちは、うっとりと総司を見つめてから、やや残念そうに可奈子の方をチラリと見た。
可奈子は心の中でため息をつく。
ふたりはつい十日前に結婚式を挙げたばかりなのだから、このような周囲の反応もある程度は仕方がない。
だとしても早く落ち着いてほしかった。
夫婦で同じ航空会社なのだから、こんなことはこれからも数えきれないくらいある。そのたびにこんな反応をされたのでは、とてもじゃないが身が持たない。
そのうちに、総司たちがカウンターのすぐそばまでやってきた。搭乗口へ向かう彼らにグランドスタッフ一同は頭を下げる。
「いってらっしゃいませ」
「ありがとう、いってきます」
聞き慣れた低い声が返ってきた。
その声につられるように目を上げると、通り過ぎる寸前の総司の視線と目が合った。
わずかに緩む彼の目元。
可奈子の鼓動がどくんと跳ねた。
続いてすぐにCAたちが可奈子たちの前を通り過ぎる。
「いってらっしゃいませ」
もう一度さっきと同じように頭を下げるが、今度は返事は返ってこなかった。
彼らの後ろ姿がボーイングビレッジに消えたのを確認して、可奈子はホッと息を吐いた。
それにしても。
可奈子が着ている制服と彼女たちCAの制服は、デザイン自体は変わらない。違うのはスカーフの色くらいなのに、どうしてあんなにも華やかなのだろう。
皆、すらりとしていて、美しい顔立ちで。
対する可奈子は"普通"のひと言だった。
空港で働く者のマナーとして、勤務中はきちんとメイクをしているから、それなりに見えるはず。
でも普段は、黒目がちの目とふっくらとした頬、やや低めの身長のせいで、実年齢よりも歳下に見られがち。
あの美しいCAたちとは雲泥の差だった。
可奈子と総司の結婚は、社内の女性社員たちを一時パニックに陥れた。
陰で"格差婚"とまで言われている。
ひどい話だとも思うけれど、それはすべて相手が可奈子だからだろう。
もしあの華やかなCAたちのうちの誰かだったとしたら……。
と、そこまで思いを巡らせて、その卑屈な考えに可奈子は強制的にストップをかける。
今は勤務時間中、そんなことを考えている暇はない。
ちょうど機内から乗客の搭乗許可が下りた。可奈子は気持ちを切り替えて、ジュニアカスタマープランの男の子の元へ歩み寄った。
今から基準に従って優先搭乗が始まる。
彼もその対象だ。
「いよいよだよ。楽しみだね」
頬を染めて目を輝かせている男の子を連れて、可奈子はボーディングブリッジを歩いていく。
航空機の入口には、山崎美鈴(やまさきみすず)というCAが待っていた。
彼女は社内でもひときわ目立つ存在だ。
美人揃いのCAの中でも飛び抜けた美貌と語学力を兼ね備えたまさに才色兼備というべき彼女は、一時期、総司との関係を噂されていたこともある。
美鈴が可奈子に気が付いて、形のいい眉を寄せた。
「おつかれさまです。ジュニアカスタマープランのお客さまをお連れしました」
彼女の放つどこか威圧的な空気に負けないように可奈子は言う。
美鈴が一瞬目を細めて不快そうに可奈子を見る。でもすぐに男の子に向かって、優しげな笑みを浮かべた。
「こんにちは、機内では私が担当します。よろしくね」
そして可奈子にはなにも言わずに、さっさと彼を機内へ連れていってしまう。
「飛行機ははじめてかな。困ったことがあったら、なんでも言ってね」
美鈴に声をかけられながら、機内へ乗り込む男の子の背中に可奈子は声をかける。
「いってらっしゃい。よい旅を」
振り返って会釈をする男の子の隣で、美鈴がチラリとこちらを見た。
明らかに敵意を含んだその視線に、可奈子は身体を強ばらせる。
無意識のうちにギュッと手を握り締めた。
「ふふふ、飛行機、楽しみだね」
「ねー、久しぶり」
他の乗客が後ろからやってくる気配にハッとして振り返る。
小さく深呼吸をしてから、可奈子はボーディングブリッジを戻り始めた。