敏腕パイロットは純真妻を溢れる独占愛で包囲する
クリスマスマーケット
札幌の告白から数カ月後、その年、関東地方ではじめて初雪を観測した日の夕暮れ時、可奈子は総司と横浜にいた。期間限定で開催されているクリスマスマーケットに行くためである。
きっかけは可奈子がテレビで本場ドイツのクリスマスマーケットの特集を観たことだった。
古い街並みに降る雪の中、立ち並ぶ溢れんばかりのオーナメントが飾られた屋台。色とりどりに輝いて道ゆく人々の目を楽しませるキャンドルやスノードーム。
ソーセージ、シュネーバールでお腹を満たしてホットワイン片手に語らう人々。
一度でいいか行ってみたいと言う可奈子に、それならばまずは近場で体験してみては、と総司が誘ってくれたのだ。
仕事帰りに待ち合わせて訪れた赤れんがの倉庫が並ぶレトロな広場は、温かい光とたくさんの人で溢れていた。
「わぁ、すごい! 綺麗‼︎」
広場の真ん中には、本物のもみの木を飾り立てた大きなクリスマスツリー、ログハウス風の屋台がずらりと並び、頭の上に張り巡らされたオレンジ色のライトが星空のように輝いている。
今夜は氷点下になると、朝のニュースで言っていたはずなのに、ちっとも寒さを感じなかった。
「本当にドイツに来たみたいですね!」
少し興奮してそう言うと、総司が微笑んで頷いた。
「ツリーがすごいな。どっから持ってきたんだろう」
目を細めて見上げる彼の横顔が、ライトの光と重なってとてもきれだった。
ふたりはゆっくりと歩き出しまずは屋台を見て回る。
「如月さんは、行ったことあるんですか? どこかのクリスマスマーケット」
「一度だけ。確かミュンヘンだったかな」
「ミュンヘン! いいなぁ。本場の屋台もこんな感じでした?」
星形のオーナメントがたくさん飾られた店先に目が釘付けになりながら、可奈子は総司に問いかける。
「どうだったかな。正直言って今日みたいにゆっくり楽しんだわけじゃないんだ」
彼の方もあっちこっちに視線を送りながら答えた。
「ホテルの近くでやってるから、ちょっと行ってみようという話になっただけで」
その言葉に、可奈子の胸がツキンと鳴る。口ぶりから、誰かと一緒に行ったことが明らかだったからだ。
いったい誰と行ったのだろう。
そんなことを考えながら、可奈子がチラリと彼を見ると、視線と視線がぶつかった。
「どうかした?」
「い、いえ……なにも」
どきりとしてうつむくと、彼は眉を上げて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「気になる? 誰と行ったのか」
「え⁉︎ あ、えーと……は、はい……気になります」
ズバリの指摘に、可奈子は頬を染めて頷く。総司が嬉しそうににっこりとして、すぐに可奈子の知りたい答えをくれた。
「前田さんだよ。ステイが一緒だったんだ」
「あ、前田機長」
「そう。男ふたりで屋台をじっくり見て回るのも変だろう? でっかいソーセージをたらふく食ってすぐに帰ったよ」
「ふふふ、たらふく食べたんだ」
ホッとして可奈子は思わず笑顔になってしまう。すると総司がまたにっこりと微笑んだ。
「安心した?」
「え? あ……は、はい」
「ん、ならよかった」
札幌でお互いに気持ちを伝え合ったふたりだけれど、まだ正式には付き合っていない。だから一応は友人同士という距離を保っていた。
時間を見つけてふたりで会い、遅くならないうちに帰る。
でも時折こんな風に、友人だけれどただの友人ではない、ふたりの間には特別な感情あるのだということを思い出すような瞬間がある。それが胸にくすぐったい。
ソーセージが焼ける香ばしい香りに誘われて、このままここで夕食を、という話になる。
食べ物をいくつか手に入れて、広場の片隅に設けられたフードコートに可奈子と総司は腰を下ろした。
「足りなかったら、おかわりはあるから」
からかうように言いながら、湯気を立てるソーセージを総司が可奈子に差し出す。
「ふふふ、美味しそうだから、いくらでも食べられそう」
受け取って可奈子はさっそくかぶりついた。
パキッという子気味いい音とともに口の中で肉汁が弾け飛ぶ。
本場ドイツから直輸入したというソーセージは格別だった。
「美味しい!」
可奈子は思わず声をあげる。
そしてもうひと口かぶりつこうとして、目の前の彼が食べずにこちらを見つめていることに気が付いて首を傾げた。
「如月さんは食べないんですか?」
「食べるよ。でもその前に、伊東さんが食べている姿を楽しんでるんだ」
「も、もうっ……! は、早く食べないと冷めますよ」
またもや、"ただの友人ではない"と感じさせるようなことを言う彼に、可奈子は頬を染める。
おそらく彼は確信犯だ。いつまでも待つ、それまでは友人同士だと約束はしたものの、まったく今まで通りというわけではないと、暗に可奈子に言っている。
優しくて柔らかいやり方で、可奈子に好意を伝えてくれている。
まるで、励まされているようだと可奈子は思う。
"怖がらないで、勇気を出して"と心の声が聞こえてくるような気分だった。
可奈子の心はもう彼のものだ。
それは動かしようのない事実で、今更引き返すことなどできはしない。
だから、答えはひとつなのだ。
ソーセージを食べ終えてホットワインのカップを手に、ふたりは雑踏から少し離れる。
「如月さん」
遠目にクリスマスツリーを見つめながら、可奈子は慎重に口を開く。
どんな風に言葉にすれば、うまく想いが伝わるだろう。
決意を込めた呼びかけに、総司が静かな眼差しで応えた。
「ずっと、お返事をお待たせしてすみませんでした」
「謝らなくていい」
即座に答えた彼の言葉に、可奈子は一瞬笑みを浮かべる。
優しい言葉と温かい心。
彼ならば可奈子の想いを受け止めてくれるはず。
「すぐにお応えできなかったのは、私の中で解決していない問題があったからなんです」
こんなことを伝えてもいいのだろうかと少し不安だった。
彼の反応を見るのが怖くて手の中のトナカイ柄のカップに視線を落とす。
可奈子の中のこだわりは可奈子だけの問題だ。本当なら彼に伝える必要はないだろう。
でも聞いてもらえたら、可奈子自身、なにかが変わるような気がしていた。
「私の両親は父の女性関係が原因で、私が中学生の頃に離婚しています。それ自体は、別に珍しくない話だとは思うんですけど。……実は父はパイロットだったんです。世界中を飛び回っていてあまり家にはいませんでした。それで……ステイ先で女の人と……」
可奈子はそこまで言って息を吐き、ホットワインをひと口飲む。
舌先にピリリと感じるスパイシーな味に、しっかりしろと言われているような感じがした。
「父とは母が離婚した時、私、パイロットなんて女性にモテる職業なんだから、浮気ぐらい覚悟しなきゃって、母が周りから言われているのを聞いたんです。母はなにも悪くないのに……。で、私心に決めたんです。だったら私は絶対にパイロットとは結婚しないって」
この気持ちを、口に出すのははじめてだ。
いつまで経ってもかさぶたにならない心の中についた傷。
少し触れられただけですぐに血が出てしまうから、誰にも見せることができなかった。
「君は」
総司が、白い息を吐いた。
「すごく、お父さんが好きだったんだね」
可奈子の心をふんわりと包み込むような穏やかな声音で総司が言う。
その言葉に、突然可奈子の目から熱い涙が溢れ出した。喉の奥が苦しくて、歯を食いしばっても止められない。
ぽたりぽたりと落ちる雫をカップを持つ手に感じながら、可奈子は、そうなのだ、と自覚する。
私は父が好きだった。
空の話を、飛行機の素晴らしさを、たくさんおしえてくれた父を可奈子は大好きだったのだ。
母を傷つけて可奈子を置いて出て行った父。
許せないと思いながら本心では憎みたくなかった。だから代わりに、パイロットという父と同じ職業に憎しみをぶつけていた。
そうすることで、父への思いと自らの悲しい気持ちに折り合いをつけて、自分の心を守っていたのだ。
でももう可奈子は知っている。
パイロットたちがどれだけの覚悟を持って空を飛んでいるのかを。たくさんの人命を乗せて飛ぶ職業の、責任の重さと尊さを。
彼らと父は違うのだ。父の犯した過ちは、彼らとまったく関係ない。
「如月さん、私……」
どう言えばいいかわからなかった。
身勝手な怒りをまったく関係ない人たちにぶつけていた自分の幼さが恥ずかしい。
パイロットである彼は、こんな自分をどう思っただろう。
——すると。
「可奈子、愛してるよ」
「……如月さん」
突然かけられた愛の言葉に、目を見開いて顔を上げると、温かい眼差しがそこにあった。
「君を愛してる。……俺を信じてくれ」
少し茶色い綺麗な瞳が真っ直ぐに自分を見つめている。彼なら信じられるという確信が可奈子の胸に広がった。
「はい、如月さん。よろしくお願いします」
きっかけは可奈子がテレビで本場ドイツのクリスマスマーケットの特集を観たことだった。
古い街並みに降る雪の中、立ち並ぶ溢れんばかりのオーナメントが飾られた屋台。色とりどりに輝いて道ゆく人々の目を楽しませるキャンドルやスノードーム。
ソーセージ、シュネーバールでお腹を満たしてホットワイン片手に語らう人々。
一度でいいか行ってみたいと言う可奈子に、それならばまずは近場で体験してみては、と総司が誘ってくれたのだ。
仕事帰りに待ち合わせて訪れた赤れんがの倉庫が並ぶレトロな広場は、温かい光とたくさんの人で溢れていた。
「わぁ、すごい! 綺麗‼︎」
広場の真ん中には、本物のもみの木を飾り立てた大きなクリスマスツリー、ログハウス風の屋台がずらりと並び、頭の上に張り巡らされたオレンジ色のライトが星空のように輝いている。
今夜は氷点下になると、朝のニュースで言っていたはずなのに、ちっとも寒さを感じなかった。
「本当にドイツに来たみたいですね!」
少し興奮してそう言うと、総司が微笑んで頷いた。
「ツリーがすごいな。どっから持ってきたんだろう」
目を細めて見上げる彼の横顔が、ライトの光と重なってとてもきれだった。
ふたりはゆっくりと歩き出しまずは屋台を見て回る。
「如月さんは、行ったことあるんですか? どこかのクリスマスマーケット」
「一度だけ。確かミュンヘンだったかな」
「ミュンヘン! いいなぁ。本場の屋台もこんな感じでした?」
星形のオーナメントがたくさん飾られた店先に目が釘付けになりながら、可奈子は総司に問いかける。
「どうだったかな。正直言って今日みたいにゆっくり楽しんだわけじゃないんだ」
彼の方もあっちこっちに視線を送りながら答えた。
「ホテルの近くでやってるから、ちょっと行ってみようという話になっただけで」
その言葉に、可奈子の胸がツキンと鳴る。口ぶりから、誰かと一緒に行ったことが明らかだったからだ。
いったい誰と行ったのだろう。
そんなことを考えながら、可奈子がチラリと彼を見ると、視線と視線がぶつかった。
「どうかした?」
「い、いえ……なにも」
どきりとしてうつむくと、彼は眉を上げて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「気になる? 誰と行ったのか」
「え⁉︎ あ、えーと……は、はい……気になります」
ズバリの指摘に、可奈子は頬を染めて頷く。総司が嬉しそうににっこりとして、すぐに可奈子の知りたい答えをくれた。
「前田さんだよ。ステイが一緒だったんだ」
「あ、前田機長」
「そう。男ふたりで屋台をじっくり見て回るのも変だろう? でっかいソーセージをたらふく食ってすぐに帰ったよ」
「ふふふ、たらふく食べたんだ」
ホッとして可奈子は思わず笑顔になってしまう。すると総司がまたにっこりと微笑んだ。
「安心した?」
「え? あ……は、はい」
「ん、ならよかった」
札幌でお互いに気持ちを伝え合ったふたりだけれど、まだ正式には付き合っていない。だから一応は友人同士という距離を保っていた。
時間を見つけてふたりで会い、遅くならないうちに帰る。
でも時折こんな風に、友人だけれどただの友人ではない、ふたりの間には特別な感情あるのだということを思い出すような瞬間がある。それが胸にくすぐったい。
ソーセージが焼ける香ばしい香りに誘われて、このままここで夕食を、という話になる。
食べ物をいくつか手に入れて、広場の片隅に設けられたフードコートに可奈子と総司は腰を下ろした。
「足りなかったら、おかわりはあるから」
からかうように言いながら、湯気を立てるソーセージを総司が可奈子に差し出す。
「ふふふ、美味しそうだから、いくらでも食べられそう」
受け取って可奈子はさっそくかぶりついた。
パキッという子気味いい音とともに口の中で肉汁が弾け飛ぶ。
本場ドイツから直輸入したというソーセージは格別だった。
「美味しい!」
可奈子は思わず声をあげる。
そしてもうひと口かぶりつこうとして、目の前の彼が食べずにこちらを見つめていることに気が付いて首を傾げた。
「如月さんは食べないんですか?」
「食べるよ。でもその前に、伊東さんが食べている姿を楽しんでるんだ」
「も、もうっ……! は、早く食べないと冷めますよ」
またもや、"ただの友人ではない"と感じさせるようなことを言う彼に、可奈子は頬を染める。
おそらく彼は確信犯だ。いつまでも待つ、それまでは友人同士だと約束はしたものの、まったく今まで通りというわけではないと、暗に可奈子に言っている。
優しくて柔らかいやり方で、可奈子に好意を伝えてくれている。
まるで、励まされているようだと可奈子は思う。
"怖がらないで、勇気を出して"と心の声が聞こえてくるような気分だった。
可奈子の心はもう彼のものだ。
それは動かしようのない事実で、今更引き返すことなどできはしない。
だから、答えはひとつなのだ。
ソーセージを食べ終えてホットワインのカップを手に、ふたりは雑踏から少し離れる。
「如月さん」
遠目にクリスマスツリーを見つめながら、可奈子は慎重に口を開く。
どんな風に言葉にすれば、うまく想いが伝わるだろう。
決意を込めた呼びかけに、総司が静かな眼差しで応えた。
「ずっと、お返事をお待たせしてすみませんでした」
「謝らなくていい」
即座に答えた彼の言葉に、可奈子は一瞬笑みを浮かべる。
優しい言葉と温かい心。
彼ならば可奈子の想いを受け止めてくれるはず。
「すぐにお応えできなかったのは、私の中で解決していない問題があったからなんです」
こんなことを伝えてもいいのだろうかと少し不安だった。
彼の反応を見るのが怖くて手の中のトナカイ柄のカップに視線を落とす。
可奈子の中のこだわりは可奈子だけの問題だ。本当なら彼に伝える必要はないだろう。
でも聞いてもらえたら、可奈子自身、なにかが変わるような気がしていた。
「私の両親は父の女性関係が原因で、私が中学生の頃に離婚しています。それ自体は、別に珍しくない話だとは思うんですけど。……実は父はパイロットだったんです。世界中を飛び回っていてあまり家にはいませんでした。それで……ステイ先で女の人と……」
可奈子はそこまで言って息を吐き、ホットワインをひと口飲む。
舌先にピリリと感じるスパイシーな味に、しっかりしろと言われているような感じがした。
「父とは母が離婚した時、私、パイロットなんて女性にモテる職業なんだから、浮気ぐらい覚悟しなきゃって、母が周りから言われているのを聞いたんです。母はなにも悪くないのに……。で、私心に決めたんです。だったら私は絶対にパイロットとは結婚しないって」
この気持ちを、口に出すのははじめてだ。
いつまで経ってもかさぶたにならない心の中についた傷。
少し触れられただけですぐに血が出てしまうから、誰にも見せることができなかった。
「君は」
総司が、白い息を吐いた。
「すごく、お父さんが好きだったんだね」
可奈子の心をふんわりと包み込むような穏やかな声音で総司が言う。
その言葉に、突然可奈子の目から熱い涙が溢れ出した。喉の奥が苦しくて、歯を食いしばっても止められない。
ぽたりぽたりと落ちる雫をカップを持つ手に感じながら、可奈子は、そうなのだ、と自覚する。
私は父が好きだった。
空の話を、飛行機の素晴らしさを、たくさんおしえてくれた父を可奈子は大好きだったのだ。
母を傷つけて可奈子を置いて出て行った父。
許せないと思いながら本心では憎みたくなかった。だから代わりに、パイロットという父と同じ職業に憎しみをぶつけていた。
そうすることで、父への思いと自らの悲しい気持ちに折り合いをつけて、自分の心を守っていたのだ。
でももう可奈子は知っている。
パイロットたちがどれだけの覚悟を持って空を飛んでいるのかを。たくさんの人命を乗せて飛ぶ職業の、責任の重さと尊さを。
彼らと父は違うのだ。父の犯した過ちは、彼らとまったく関係ない。
「如月さん、私……」
どう言えばいいかわからなかった。
身勝手な怒りをまったく関係ない人たちにぶつけていた自分の幼さが恥ずかしい。
パイロットである彼は、こんな自分をどう思っただろう。
——すると。
「可奈子、愛してるよ」
「……如月さん」
突然かけられた愛の言葉に、目を見開いて顔を上げると、温かい眼差しがそこにあった。
「君を愛してる。……俺を信じてくれ」
少し茶色い綺麗な瞳が真っ直ぐに自分を見つめている。彼なら信じられるという確信が可奈子の胸に広がった。
「はい、如月さん。よろしくお願いします」