敏腕パイロットは純真妻を溢れる独占愛で包囲する
エレベーターの中で、モニターに表示されている数字を、可奈子はぼんやりと見つめている。
お昼休みに里香の話を聞いてからずっと、自分の中の彼に対する気持ちと向き合っていた。もし総司がルーカスと同じことをしようとしているとしたら、自分はどうするべきなのだろうということを。
後数十秒で家に着くというのに、まだ答えはでないままだった。
もし彼が今夜自分をどうにかしようとしているなら……。
——それでも。
たとえそうなったとしても、彼を恨む気持ちは胸の中のどこをどう探しても見つからなかった。
モニターの数字が三十で止まり、音もなくドアが開く。可奈子はこくりと喉を鳴らしてエレベーターを降りた。
自宅まで数メートルの距離を、これ以上ないくらいにゆっくりと歩く。セキュリティを解除すると、深呼吸をひとつして目を閉じた。
意を決してドアを開けたその先は、温かい空気と食欲をそそるいい香りに満ちていた。それが、以前食べたことのある総司特製のスパイスカレーだということに気が付いて、胸の奥がギュッとなる。
彼は最期の夜を可奈子の好きな食べ物で終わらせようとしているのだろうか。でもそこまで考えて、その考えを打ち消した。
彼がルーカスと同じことを考えているとは限らない。
でもリビングへ足を踏み入れて、彼の顔を見た瞬間可奈子は"やっぱりそうなのだ"と確信する。ソファから立ち上がり振り返った総司が、苦渋に満ちた表情をしている。
「可奈子……」
おかえりとも言わず、彼は可奈子を見つめている。その眼差しに、迷うような色を見て、可奈子の胸が切なくなった。
彼は今、これから自分がすることに対する罪悪感に苦しめられている。
誰かに手をかけるのをつらいと思うのあたりまえだ。スパイとて、もともとは普通の人間なのだから。
悲しまないで、と可奈子は思う。なにもかも可奈子のせいなのだ。
あの日、可奈子が彼の日記を見なければ、その後に、彼の正体に気付かなければ、この結婚は続いていた。彼は手を汚さなくて済んだのだ。
見たこともないくらい苦しげな総司に、可奈子はようやく自分がどうすべきかということがわかる。
スパイの妻として大失態を犯した可奈子にできることはただひとつ。
総司を真正面から見つめ返し、決意を込めて口を開いた。
「総司さん。私……家を出る。それでいいでしょう?」
正体を知っていると、まだはっきりと言わないまま、可奈子が黙って家を出れば、彼は手を下さなくて済むはずだ。
「可奈子……?」
眉間に皺を寄せて怪訝な表情になる総司に、可奈子は言葉に力を込めて語りかけた。
「誰にもなにも言わないから、安心して。総司さんの迷惑になることは、絶対にしないと誓うわ。だから……」
「ダメだ!」
鋭い声に遮られ、可奈子はびくりと肩を揺らす。そのままそこをガシッと両手で掴まれた。
「ダメだ、可奈子! そんなことは許さない」
彼の視線が、可奈子の心に突き刺さる。抱き寄せられて、大好きな温もりと愛おしい香りに包まれた。
「君はここにいるんだ! なにがあっても俺から離れるなんて絶対にさせない。逃がさないからな!」
強い言葉が、可奈子の心を縛り付ける。これが愛情からくる言葉ならどんなにいいかと可奈子は思う。
可奈子だって本心では彼の元にいたい。どんな目にあっても最期までここにいたい。でもそれが彼を苦しめるなら……!
「総司さん、お願い行かせて。私……」
涙が溢れてそれ以上は言えない。震える唇を、彼に熱く塞がれた。
「んっ……!」
素早く入り込む彼の熱が、可奈子の心を掻き回す。可奈子の中で暴れ回り、思考を強制的に溶かしていく。
こんなキスははじめてだった。
まるで苛立ちをぶつけるかのような、荒々しい舌づかいで、彼は可奈子を陥落させようとしている。
彼のシャツを握りしめてなんとか耐えようとするけれど、うまくいかなかった。
「んんっ……!」
頭の中で白いなにかが弾け飛ぶ。
逃がさないと彼は言う。ここまできたら、偽装結婚の妻という役割を最後までまっとうしろということか。
でもそれは可奈子にはつらすぎるのだ。愛されていないのに、愛されているようなフリをして、彼のそばにいるなんて。
「あ、総司さん。嫌……! お願い……!」
懇願しながら、力いっぱい彼の胸を両手で押すと、自分を囲っていた腕が緩む。可奈子はすぐさま抜け出した。
「可奈子!」
傷付いたような彼の視線がつらかった。まるで心から可奈子を愛しているような精巧な偽りの愛。わかっているのに激しく胸を揺さぶられる。
その愛に、可奈子はくるりと背を向けて、そのまま家を飛び出した。
お昼休みに里香の話を聞いてからずっと、自分の中の彼に対する気持ちと向き合っていた。もし総司がルーカスと同じことをしようとしているとしたら、自分はどうするべきなのだろうということを。
後数十秒で家に着くというのに、まだ答えはでないままだった。
もし彼が今夜自分をどうにかしようとしているなら……。
——それでも。
たとえそうなったとしても、彼を恨む気持ちは胸の中のどこをどう探しても見つからなかった。
モニターの数字が三十で止まり、音もなくドアが開く。可奈子はこくりと喉を鳴らしてエレベーターを降りた。
自宅まで数メートルの距離を、これ以上ないくらいにゆっくりと歩く。セキュリティを解除すると、深呼吸をひとつして目を閉じた。
意を決してドアを開けたその先は、温かい空気と食欲をそそるいい香りに満ちていた。それが、以前食べたことのある総司特製のスパイスカレーだということに気が付いて、胸の奥がギュッとなる。
彼は最期の夜を可奈子の好きな食べ物で終わらせようとしているのだろうか。でもそこまで考えて、その考えを打ち消した。
彼がルーカスと同じことを考えているとは限らない。
でもリビングへ足を踏み入れて、彼の顔を見た瞬間可奈子は"やっぱりそうなのだ"と確信する。ソファから立ち上がり振り返った総司が、苦渋に満ちた表情をしている。
「可奈子……」
おかえりとも言わず、彼は可奈子を見つめている。その眼差しに、迷うような色を見て、可奈子の胸が切なくなった。
彼は今、これから自分がすることに対する罪悪感に苦しめられている。
誰かに手をかけるのをつらいと思うのあたりまえだ。スパイとて、もともとは普通の人間なのだから。
悲しまないで、と可奈子は思う。なにもかも可奈子のせいなのだ。
あの日、可奈子が彼の日記を見なければ、その後に、彼の正体に気付かなければ、この結婚は続いていた。彼は手を汚さなくて済んだのだ。
見たこともないくらい苦しげな総司に、可奈子はようやく自分がどうすべきかということがわかる。
スパイの妻として大失態を犯した可奈子にできることはただひとつ。
総司を真正面から見つめ返し、決意を込めて口を開いた。
「総司さん。私……家を出る。それでいいでしょう?」
正体を知っていると、まだはっきりと言わないまま、可奈子が黙って家を出れば、彼は手を下さなくて済むはずだ。
「可奈子……?」
眉間に皺を寄せて怪訝な表情になる総司に、可奈子は言葉に力を込めて語りかけた。
「誰にもなにも言わないから、安心して。総司さんの迷惑になることは、絶対にしないと誓うわ。だから……」
「ダメだ!」
鋭い声に遮られ、可奈子はびくりと肩を揺らす。そのままそこをガシッと両手で掴まれた。
「ダメだ、可奈子! そんなことは許さない」
彼の視線が、可奈子の心に突き刺さる。抱き寄せられて、大好きな温もりと愛おしい香りに包まれた。
「君はここにいるんだ! なにがあっても俺から離れるなんて絶対にさせない。逃がさないからな!」
強い言葉が、可奈子の心を縛り付ける。これが愛情からくる言葉ならどんなにいいかと可奈子は思う。
可奈子だって本心では彼の元にいたい。どんな目にあっても最期までここにいたい。でもそれが彼を苦しめるなら……!
「総司さん、お願い行かせて。私……」
涙が溢れてそれ以上は言えない。震える唇を、彼に熱く塞がれた。
「んっ……!」
素早く入り込む彼の熱が、可奈子の心を掻き回す。可奈子の中で暴れ回り、思考を強制的に溶かしていく。
こんなキスははじめてだった。
まるで苛立ちをぶつけるかのような、荒々しい舌づかいで、彼は可奈子を陥落させようとしている。
彼のシャツを握りしめてなんとか耐えようとするけれど、うまくいかなかった。
「んんっ……!」
頭の中で白いなにかが弾け飛ぶ。
逃がさないと彼は言う。ここまできたら、偽装結婚の妻という役割を最後までまっとうしろということか。
でもそれは可奈子にはつらすぎるのだ。愛されていないのに、愛されているようなフリをして、彼のそばにいるなんて。
「あ、総司さん。嫌……! お願い……!」
懇願しながら、力いっぱい彼の胸を両手で押すと、自分を囲っていた腕が緩む。可奈子はすぐさま抜け出した。
「可奈子!」
傷付いたような彼の視線がつらかった。まるで心から可奈子を愛しているような精巧な偽りの愛。わかっているのに激しく胸を揺さぶられる。
その愛に、可奈子はくるりと背を向けて、そのまま家を飛び出した。