敏腕パイロットは純真妻を溢れる独占愛で包囲する
「どうしたんだ、いきなり。びっくりするじゃないか」
 実家のマンションのリビングでジャケットを脱ぎながら父が言う。母も心配そうに頷いた。
「ちょっと近くまで来たから、寄ってみたいんだけど……」
 可奈子の言い訳をふたりが信じていないのは明らかだった。
「ま、とりあえず、座りなさない。今お父さんがお茶を淹れてあげよう」
 そう言って、いそいそとキッチンへ行く父を見送り、可奈子はダイニングテーブルに腰を下ろした。
 可奈子が中学生の頃に、離婚した両親は可奈子の結婚を機に復縁した。後から聞いたところによると離婚から数年後には、関係が元に戻っていたのだという。だが傷ついた可奈子の気持ちを慮って、言い出せなかった。
 結婚を機に可奈子が家を出るのと入れ替わりに父が実家に戻り今はふたりで暮らしている。
「可奈子、総司さんにはここにいることを言ってあるの?」
 母が心配そうに言う。
 その問いかけに答えることができなくて、可奈子はうつむいて黙り込んだ。
「可奈子を悲しませる奴は誰だろうとお父さんが許さないからな」
 テーブルに温かいお茶を並べながら父が言うが、母にじろりと睨まれて口を閉じた。
「好きなだけここにいていいからね。許せないことがあるなら、無理に許さなくていいの。簡単に許したら男はすぐにつけあがるんだから」
 可奈子に向かって優しい言葉をくれる母の隣で、父がゴホンゴホンと咳をしてお茶をずずずと飲んでいる。
 男女の仲は不思議なものだと可奈子は思う。父によって傷ついた母の心。それを癒したのは、他でもない父だった。紆余曲折ありながら結局ふたりが選んだのは夫婦という形だったのだ。
 少し前の可奈子なら理解できなかったかっただろう。裏切られ、傷付けられた相手を愛してるだなんて。
 可奈子が父を受け入れられたのは、総司と出会ったからなのだ。人を愛するという気持ちに理屈など存在しないと知ったから。
 結婚を前に母から打ち明けられた時、可奈子の中ではすでに、こんがらがっていた糸は解けていた。
「ごほん。た、確かに父さんはあまり偉そうになにかを言える立場にはないが、それでもいつも可奈子の味方であることには変わりない」
「あなたは黙っててください」
「だがしかし……」
 ポンポンと言い合いをするふたりを見つめて可奈子は思わずふふふと笑う。そして泣きそうになってしまう。
 幸せな家族の形。
 総司がいたから、今可奈子はこうしていられるのだ。やっぱり、どう考えても彼と出会わなければよかったと思うことはできなかった。
「でもおかしいなぁ。総司君は、可奈子を裏切るような男じゃないと思うんだが。俺が知っている中で最も優秀で信用できる人物だ」
 そう言って父が首を捻る。
「そんなのわからないわ」
 母が口を尖らせた。
「優秀な男ほど女が放っておかないものよ。頭脳と人格、モラルと理性、すべてを兼ね備えた男性なんてこの世に存在しないのよ。それは私が一番よくわかっています!」
「ぐっ……。だ、だが、彼に関しては昔から本当に悪い話を聞いたことがない。たいてい学生時代は遊ぶものだが……」
「昔から?」
 不可解な父の発言を可奈子は眉を寄せて遮った。
「お父さんは、昔から総司さんを知ってるの?」
 問いかけると、ふたり顔を見合わせてから、父がゆっくりと頷いた。
「知ってるよ。家に来たことだってある。彼は父さんの航空大学の後輩だ。もちろんずっと下だから一緒に通学したわけではないが」
「まさか!」
 声をあげて立ち上がると、ふたりが驚いたように可奈子を見上げた。
「可奈子、知らなかったのか」
「知らないよ! 言ってくれなかったじゃない!」
 青ざめて可奈子は言う。自分の知らないところでいったいなにが起こっているのだという、得体の知らない危機感に襲われた。
 詳細を母が口にする。
「可奈子が中学に入った頃、お父さんが時々後輩の方々を連れてきてたじゃない。あの中にいらっしゃったそうよ。お母さんも覚えていたわけじゃないんだけど、あなたたちが結婚してからお父さんに言われて知ったの」
 確かに父は可奈子が小学生の頃から離婚する直前まで、よく航空大学の仲間を家に招いてご馳走していた。
 航空大学は仲間の結びつきが固く、就職先が違っても絆は変わらないという。OBと現役学生の交流も盛んだと言って、何人かの学生を連れてきていたような。
 その中に、まだ学生だった総司がいた……?
「お父さん、どうしておしえてくれなかったの?」
 血の気が引いていくのを感じながら可奈子は父に問いかける。心臓がバクバクと鳴って、ものすごく嫌な予感がした。
 なぜ今まで彼も父も可奈子に黙っていたのだろう。
 今の今まで可奈子は、自分は総司に利用されていたのだと思っていた。組織からの任務を滞りなく成し遂げるための隠れ蓑として。
 でも今の話が本当ならば、別の可能性が浮上する。
 もしかしたら彼の目的は、可奈子自身なのではないだろうか?
 もちろん心当たりはない。可奈子はごく普通の一般人だし、機密情報を握っているようなこともない。
 でも……。
「どうして言わなかったのって……。総司君から頼まれたんだよ。可奈子が覚えていないようだから、後から驚かせたいから黙っててくれって。まだ言ってなかったのか。忘れてたのかな……」
 可奈子の推理を裏付けるような父の言葉に息を呑んだ、その時。
 突然、ピンポンとインターフォンが鳴る。三人とも玄関の方に注目する。
 まさか……。
「とにかく落ち着くのよ。お母さんはあなたの味方だから」
 母が立ち上がりオートロックを解除する。もし総司なら開けないでほしいと言わなくてはと思うのに、明かされた事実に衝撃を受けすぎて可奈子は口を開くことができなかった。
 しばらくして、現れた人物はやはり総司だった。
「お騒がせして申し訳ありません」
 両親に詫びる総司はおそらく可奈子同様走ってここまで来たのだろう。少し息が上がっていて、髪が乱れていた。
「いや、私たちはかまわないけど……」
 父が可奈子をチラリと見る。
 総司が可奈子に向かって口を開いた。
「ここにいてくれて安心したよ。可奈子、携帯も持っていかなかったから」
 心底安堵した様子の総司に可奈子はやはり、彼の狙いは自分なのだと確信する。でなければ、逃げていった偽装結婚の妻をわざわざ追いかけてくる必要はない。
「可奈子、とにかく話をしよう。結論を出すのはそれからだ」
 なだめるように総司は言う。
 ならば本当のことを言ってほしいと可奈子は思った。偽りの優しさと、嘘で塗り固められた愛。そんなものはもうたくさんだ。可奈子自身が狙いならば、たとえそれが命でも、喜んで差し出そう。
 真実を話してくれるなら。
「思っていることを話してほしいんだ、可奈子。なんでもいいから」
「話をするのは総司さんよ!」
 反射的に可奈子は声をあげる。もうこれ以上、黙ってはいられなかった。
「え?」
「本当のことを言って! 私全部知ってるんだから!」
 ほとんど叫ぶように可奈子は彼に訴える。
 呆気に取られたように眉を寄せて、総司がそのままフリーズする。
「可奈子……」
 隣で父がため息をついた。
「男がすべてを言わないのは、優しさなんだよ。知らなくていいことも、この世に存在するんだから……」
 もっともらしい言い方だが、内容は、はちゃめちゃだ。
 それに母が反応する。
「あなたはまた、そんなことを言って! 許してほしければ、すべてを洗いざらい話すのが絶対条件でしょう! 自分の行いを隠したまま、許してもらおうなんて、そんな虫のいい話あるわけないじゃないの!」
 青筋を立てて父と総司をじろりと睨む。
 総司が慌てて首を振った。
「い、いや、僕にはなんのことか……」
「総司さん……」
 可奈子は彼に呼びかけた。
「私もう、覚悟はできてるから」
 なにを聞いても彼への愛は変わらない。なにを差し出してもいいという決意も揺らがない。
 父がまた割って入る。
「いや可奈子、それは結論を急ぎすぎだ。そんな一回の浮気くらいで……」
「回数は関係ありません! 罪は罪です! 可奈子、許せないなら無理しなくていいんだからね」
 懸命な父のとりなしも、母の怒りも耳に入ってこなかった。ここまできたらもう道はひとつだ。
 可奈子は総司をジッと見つめて、ついにその言葉を口にした。
「総司さん、総司さんはスパイなんでしょう?」
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