敏腕パイロットは純真妻を溢れる独占愛で包囲する
仲直りの夜
 宝石箱のような夜景を望むふたりの自宅のリビングに、総司の笑い声が響く。
 可奈子は憮然として彼の隣に座っていた。
「くっくっく、あははは!」
 ついさっきふたりは実家からここへ戻ってきた。その帰り道の間、家に着いてからも彼はずっと笑いっぱなしだ。
「まさかそんなことで悩んでいたとは、くくく。ほんっとに可愛いなぁ、可奈子は」
 口では可愛いなどと言っているが、どう考えても馬鹿にされてるとしか思えない。可奈子は頬を膨らませた。
「もう! まだ疑いは晴れてないんだから!」
 可奈子のスパイ発言は、その場にいた三人を唖然とさせ、混乱させ、笑いの渦に陥れた。
『どうしてそんな話になるんだ‼︎』
 笑い続ける三人に可奈子は一生懸命反論をした。
『だって……! 私聞いちゃったんだもん』
『なにを?』
『総司さんがスパイだって』
『誰から?』
『えーと……』
 でもうまく説明できなかった。
『ロッカールームで先輩たちが、総司さんはスパイじゃないかって言ってたの。海外ドラマのスカイスパイに設定がそっくりだって。それで私……』
 話をすればするほど、自分でも混乱して、支離滅裂な説明になっていく。
 だってスパイなんて、やっぱり普通は考えられない。
 一方で、てっきり総司の浮気がバレて可奈子が飛び出してきたものと思っていた両親は、平謝りだった。
『ごめんなさいね、総司さん。この子学校とか試験とか、ちゃんとしなきゃいけない時はそれなりにしゃんとするんだけど、普段はちょっと抜けてるのよね。……ちゃんとお仕事できてるのかしら』
 心底申し訳なさそうに母が言い、『誰に似たんだろう』と父が首を傾げた。
『きっとあなたよ。あなたいつも詰めが甘いじゃない。隠しごともすぐにバレるんだから……』
 最終的には、可奈子たちがいると母の地雷を踏んでしまうと感じた父に『とにかくそういう話なら自分たちで解決しなさい』と、帰されてしまったのだ。
 だから彼の疑惑について正確にはまだ確実に否定するなにかを示されたわけではない。
 でもここまでの両親と彼の反応、それから少し冷静になった頭で考えてみたら、やっぱり誤解だったのだろうと思う。
 ……とんでもない誤解だ。
 でもだからって、そんなに笑うなんて!
 じろりと睨む可奈子の頬を、総司が突いた。
「まだ俺をスパイだと思ってる?」
「……そうじゃないけど」
 でも引っかかっていることがあるのも事実なのだ。
 可奈子は視線を落として考える。そしてもうここまできたらキチンと話をするべきだと思い顔を上げた。
「私、見ちゃったの」
 総司が笑うのをやめて首を傾げた。
「そ、総司さんの日記を……」
「日記?」
「うん、……見るつもりはなかったんだけど、掃除の時に落としちゃって。ごめんなさい」
「それはべつにかまわないけど……日記って黒いノートのやつ?」
 可奈子はこくんと頷いた。
「私たちの結婚式の日付で、その……け、計画はうまくいったって書いてあった。だから私、総司さんが私のことを好きで結婚したんじゃなくてなにか別の目的で結婚したんだって思ったのよ」
 本当はまだ少し不安だった。彼がスパイでなくたって"計画"の内容次第ではふたりの結婚の結末は同じなのではないだろうか。
 総司が目を細めてなにかを考えている。そして「おいで可奈子」と言って立ち上がった。
 寝室へ移動して可奈子をベッドに座らせて、総司はウォークインクローゼットへ向かい、黒革のノートを手に戻ってきた。
「この日の日記?」
 示されたページには可奈子を悩ませたあの記述。
《ここまでは、すべて計画通りにいった。だがまだ油断は禁物、これからも慎重にことを進めなくては》
「うん、これ」
 可奈子は頷いた。
「計画ってなに? 総司さん。私に関わること?」
 ジッと見つめて問いかける。
 すると総司がにっこり笑って、突然可奈子の頭をくしゃくしゃとした。
「きゃっ⁉︎ な、なに? 総司さん!」
「可奈子と結婚するための計画だよ! あたりまえだろう? 日付が結婚式の日なんだから」
 心底おかしそうに彼は言う。
 その説明に可奈子は納得いかなかった。
「だから、どうして私と結婚するために計画を練ったのって言ってるの。福岡で偶然会ったこととか、食べ歩きの趣味が一緒だったとか、そういうのも計画のうちだったんでしょう? 総司さんはどうしてそこまでして、私と結婚する必要があったの?」
 その問いかけに、総司が噴き出した。
「だから、君が好きだからに決まってるだろう! 本当に可愛いなぁ可奈子は」
 そう言ってまた笑い出す。大きな背中がくっくと揺れ続けるのを可奈子は唖然として見つめていた。
「好きだから……?」
「そうだよ、あたりまえじゃないか。それ以外になにがあるんだ」
 好きだから結婚する、それ以外になにがあるのか、そんなの可奈子にだってわからない。わからないからこんなにも悩んだのだ。
「だだだだからって……! わわわわざわざ"計画"だなんてお大げさすぎると思う」
 あまりに大きな勘違いをしたことが恥ずかしくて、可奈子は反論する。
 その言葉を拾い上げて総司は首を横に振った。
「大げさなんかじゃないよ。可奈子パイロットとは付き合わないって決めていたんだろう? はじめて話しかけた時めいいっぱい警戒してたじゃないか。正攻法でいったら、今ごろ結婚できてなかった」
「そ、そんなこと……」
 なかったのに、とは可奈子には言えなかった。確かにあの日、可奈子はパイロットというだけで、彼に話しかけられたことを迷惑に感じていた。
「可奈子が食べ歩きに凝っているのは噂で聞いていたからね。警戒されないようにさりげなく好きそうな店の話をすれば興味を持つと思ったんだ。古典的な作戦だろう?」
 なんてこと!
『古典的だけど、有効な手段』
 すべて由良が言っていた通りだったのだ! あれが正解だったのに!
 まったく違う方向に誤解していった自分自身が恨めしい。
 お陰でどれだけつらい思いをしたことか……。
「なんだ……」
 どっと疲れを感じてしまい、可奈子はがっくりと肩を落とした。
 母が言っていた通り可奈子には少し抜けているところがあって、それはなんとなく自覚している。だからこそ勤務中は特に気を付けているのだが、その分普段はどうしても気を抜いてしまうのだ。
「安心した?」
 もう一度頭をくしゃくしゃとして総司が可奈子を覗き込む。
 心の底から安堵して可奈子はこくんと頷いた。
「もう大丈夫です」
 すると総司は今度は真剣な表情になる。そして少し迷うように口を開いた。
「可奈子、今回のことは別として他になにかつらいことはないか?」
「総司さん?」
 言葉の意図がわからなくて可奈子は首を傾げた。
「忠告してくれた人がいてね。その……可奈子が俺との結婚で働きにくくなっているんじゃないかって」
 そこまで聞いて、可奈子はようやく彼の言わんとする意味を理解した。
 総司と可奈子の結婚は、NANA・SKY全社に衝撃を与えたと言われている。彼の耳にそういう話が届いても不思議ではない。
「可奈子、本当のことを言ってくれ」
 眉を寄せて心配そうな総司に可奈子は少し考えてから口を開いた。
「そういえば、CAの山崎さんが……」
 その言葉に総司がぴくりと反応した。
「なにか言われたのか?」
「えーと……総司さんは私と仕方がなく結婚したとかなんとか言ってた」
 だからこそ可奈子は彼をスパイ、彼女を相棒だと思い込んでしまったわけだ。
 総司が苦々しい表情になった。
「前田さんが山崎さんによからぬ話を吹き込んだらしいだ」
「よからぬ話?」
 総司がため息をついた。
「俺がCAの誰かと付き合うと揉め事が起きるから、CAとは恋愛を禁止されていたと言ったらしい。だから可奈子と結婚したとか、……もちろんデタラメなんだが」
 だから美鈴はあんな風に言ったのか、と可奈子は呆気に取られてしまう。あれはそういう意味だったのか。
「それ以外にも嫌な話を聞いたりしたんじゃないか?」
 心配顔で問いかける総司に、可奈子の中でパズルのピースがまたハマる。
 総司はこのことを可奈子に聞いていたんだ。スパイだと気付いているんじゃないかと問い詰められていたわけではなくて!
「ふ、ふふふ、ふふふ……、あははは!」
 なにもかもをあさっての方向に解釈していた自分がおかしくてたまらなかった。
 こうやってちゃんと話を聞いていればすぐにわかったはずなのに。
「可奈子?」
「だって、おかしい! 私、私やっぱりお母さんの言うとおり、ズレてるね。でもよかった! なにもかもが勘違いで」
 完全に誤解が解けたことと安心で、可奈子は笑いが止まらない。
 すると総司が意外そうにまた可奈子に問いかけた。
「可奈子、気にしていないのか?」
「なにが?」
「周りからあれこれ言われることを」
 可奈子は目をパチパチさせた。
「まったく気にならないよ」
 そりゃあ、美鈴の態度はどうかと思う。業務に支障が出るならなんとかしてほしいと思うけれど、そうでないのなら、どうでもいい話だった。
 そもそも結婚が発表されてから結婚式を挙げるまでも散々いろいろ言われたけれど、だからといって落ち込むようなことはなかった。
 周りの言動がどうしても気になり始めたのは、すべては日記を見てからなのだ。
「総司さんがちゃんと私のことを好きなんだって信じられれば、私、誰になにを言われても平気」
「君は……」
 総司がホッとしたように呟いた。
「そうだな、可奈子はそうなんだ」
 抱き寄せられて、頬に感じる彼のシャツに可奈子は頬ずりをする。
「総司さん、大好き」
 大好きなウッディムスクの香りに心まで満たされた。顎に手を添えられて、顔をあげると、少し茶色い綺麗な瞳が可奈子を愛おしげに見つめている。
 彼はやっぱりスパイだった、類まれなる容姿と魅力でもって世界中の女性を虜にして、任務にあたっているのだと、今ここで言われたら信じてしまいそうになるくらい、吸い込まれそうな綺麗な瞳。
 本当のところ可奈子は、もうどっちでもいいのかもしれない。彼がスパイでも、そうでなくてもどうせ心は囚われたままだ。彼からは離れられないのだから。
「可奈子、愛してるよ」
 その言葉にうっとりと目を閉じると、唇に優しくキスが降ってきた。
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