一夜限りと思ったワンコ系男子との正しい恋愛の始め方
考えてみると美晴のことは、毎週水曜日にコンビニのイートインコーナーでコーヒーを飲む、という習慣しか知らない。聞いてみると自分より三歳年上で、アウトソーシングの会社に勤めているとのことだった。
「アウトソーシングって?」
「業務委託を請負う会社です。例えば今、私が関わっているのがとあるメーカーの顧客サポートの窓口業務なんですけど、結構大きいプロジェクトだったんで準備に一年かかって、今年の四月になんとかスタートしました」
「美晴さんは窓口業務をしているんですか?」
「ではなく、その業務委託が滞りなく出来ているかをチェックする方です」
「じゃあ立ち上げも一からやった?」
「チームで、ですけど。めちゃくちゃ忙しくて地獄でした……」
そう言うと、美晴が遠い目をしたまま無表情になる。社会人になってから見かけるようになった、仕事に忙殺された人のする目だ。
「大変だったんですね」
上手く話を続けることもできず、かろうじてそれだけを健斗が言うと、美晴がハッとしたように表情を戻した。
「でもスタートしてもう四ヶ月経過したんで、ずいぶん落ち着いたんです。私も今は委託元のコールセンターに駐在しているけれど、あと二ヶ月で後輩に引き継いで本社に戻る予定なんで」
「それじゃあ、十月には会えなくなってしまうんですか?」
「本社に戻るって言っても、ここからすぐの場所ですよ」
クスクスと笑って美晴が答える。どうも彼女は健斗が困った表情をすると、笑いのツボにはまるらしい。ただその笑いは決して嘲るものではなく、なにか優しさを感じさせるものだった。
「それなら、またご飯に誘っても良いですか?」
本日二回目の誘い文句だ。言った直後にそう自分で気付き、健斗がとっさに身構える。
「いいですよ。でも次回からはもっと気軽に行けるところにしましょう」
打ち解けてきたせいか、今度は拒否されることなくうなずかれた。その目元がほんのりと朱に染まっている。気が付くとメインの肉料理もそろそろ食べ終わる頃で、いつの間にかスパークリングのボトルも空いていた。
「合鴨とオレンジソースって本当に合いますよね」
嬉しそうにそう言い、美味しそうに食べる美晴のその表情に警戒心はない。健斗に馴染んできたのと、多少酒が回ってきたせいなのかもしれない。
デザートのアイスクリームが出て食後のコーヒーが終わる頃には、美晴はすっかりとくつろいでいた。一方の健斗はまた少しずつ緊張している。脳裏にふと、ビールジョッキを片手に持って乾杯している陽平の姿が浮かんで慌てて消した。せっかくここまで打ち解けたのに、勢い込んで失敗するような真似はしたくない。
「今日はごちそうさまでした」
会計を済ませて店を出て、駅に向かって歩き出す。繁華街のメイン通りから離れた場所にあり、人通りは少ない。夏の暑さは夜になっても緩まずに、ムッとした空気に満ちていた。たまに人とはすれ違うが、二人きりの道だ。美晴のゆっくりとした歩きに健斗は合わせているつもりだったが、歩幅の違いかどうしても美晴が遅れ気味になっていた。
「あの井草さん、このあとってお時間ありますか?」
「はい?」
斜め後ろから声がして、健斗が慌てて振り向いた。
「もしよかったら、お茶でも。おごらせてください」
その笑顔がふわふわとして頼りなく、美晴がほろ酔いで上機嫌なのが見て取れた。
「なんで」
「ディナー奢ってもらったお礼です。そのくらいさせてください」
年上の矜持があるせいか、ちょっと強気な表情だ。それがたまらなく可愛く思えて、健斗は慌てて前方を見ると歩を早めた。物理的に少し距離を置かないと、自分が何かしでかしそうで、自制できる自信が無い。
「俺がぶつかって美晴さんに迷惑かけたせいだし」
「コーヒー染みならすぐ処置したんで、クリーニング屋さんに出さなくても大丈夫でしたよ」
ちらりと振り返って見てみると、一生懸命主張する美晴の表情が店にいたときよりもあどけない。酔うと隙だらけになるタイプか、と思った瞬間、美晴の体がグラッと揺れた。
「わっ!」
焦った声が聞こえ、ガツッと地面を蹴るような音がした。その途端、健斗の腕に軽い衝撃があり、反射的にそれを受け止める。
「ご、ごめんなさいっ。なんか躓いちゃって」
そう言って謝る美晴を抱きかかえたまま、まじまじと見つめた。少し酔っているせいなのか、潤んだ瞳がまっすぐ健斗を見上げている。そのまま黙って見つめ合っていると、次第に美晴の頬が赤くなってきた。
「そんな、……見ないでください」
「俺このままじゃ、コーヒーとか大人しく飲んでいられなさそうなんで、危険です」
そう囁く声がかすれていた。自分の態度がなるべく威圧的に見えないことだけを、ひたすら祈る。今すぐ押し倒したい。そんなぎらつく欲望を抑えるのに必死だ。
美晴は一瞬目を見開いたあと、すぐに目を伏せた。その仕草がなにか痛みをこらえるかのように見えて、健斗はたまらず彼女を強く抱きしめる。
「美晴さん」
「……いいです」
それでも
そう小さく告げる美晴の声が、健斗の胸にくぐもって響いた。
「アウトソーシングって?」
「業務委託を請負う会社です。例えば今、私が関わっているのがとあるメーカーの顧客サポートの窓口業務なんですけど、結構大きいプロジェクトだったんで準備に一年かかって、今年の四月になんとかスタートしました」
「美晴さんは窓口業務をしているんですか?」
「ではなく、その業務委託が滞りなく出来ているかをチェックする方です」
「じゃあ立ち上げも一からやった?」
「チームで、ですけど。めちゃくちゃ忙しくて地獄でした……」
そう言うと、美晴が遠い目をしたまま無表情になる。社会人になってから見かけるようになった、仕事に忙殺された人のする目だ。
「大変だったんですね」
上手く話を続けることもできず、かろうじてそれだけを健斗が言うと、美晴がハッとしたように表情を戻した。
「でもスタートしてもう四ヶ月経過したんで、ずいぶん落ち着いたんです。私も今は委託元のコールセンターに駐在しているけれど、あと二ヶ月で後輩に引き継いで本社に戻る予定なんで」
「それじゃあ、十月には会えなくなってしまうんですか?」
「本社に戻るって言っても、ここからすぐの場所ですよ」
クスクスと笑って美晴が答える。どうも彼女は健斗が困った表情をすると、笑いのツボにはまるらしい。ただその笑いは決して嘲るものではなく、なにか優しさを感じさせるものだった。
「それなら、またご飯に誘っても良いですか?」
本日二回目の誘い文句だ。言った直後にそう自分で気付き、健斗がとっさに身構える。
「いいですよ。でも次回からはもっと気軽に行けるところにしましょう」
打ち解けてきたせいか、今度は拒否されることなくうなずかれた。その目元がほんのりと朱に染まっている。気が付くとメインの肉料理もそろそろ食べ終わる頃で、いつの間にかスパークリングのボトルも空いていた。
「合鴨とオレンジソースって本当に合いますよね」
嬉しそうにそう言い、美味しそうに食べる美晴のその表情に警戒心はない。健斗に馴染んできたのと、多少酒が回ってきたせいなのかもしれない。
デザートのアイスクリームが出て食後のコーヒーが終わる頃には、美晴はすっかりとくつろいでいた。一方の健斗はまた少しずつ緊張している。脳裏にふと、ビールジョッキを片手に持って乾杯している陽平の姿が浮かんで慌てて消した。せっかくここまで打ち解けたのに、勢い込んで失敗するような真似はしたくない。
「今日はごちそうさまでした」
会計を済ませて店を出て、駅に向かって歩き出す。繁華街のメイン通りから離れた場所にあり、人通りは少ない。夏の暑さは夜になっても緩まずに、ムッとした空気に満ちていた。たまに人とはすれ違うが、二人きりの道だ。美晴のゆっくりとした歩きに健斗は合わせているつもりだったが、歩幅の違いかどうしても美晴が遅れ気味になっていた。
「あの井草さん、このあとってお時間ありますか?」
「はい?」
斜め後ろから声がして、健斗が慌てて振り向いた。
「もしよかったら、お茶でも。おごらせてください」
その笑顔がふわふわとして頼りなく、美晴がほろ酔いで上機嫌なのが見て取れた。
「なんで」
「ディナー奢ってもらったお礼です。そのくらいさせてください」
年上の矜持があるせいか、ちょっと強気な表情だ。それがたまらなく可愛く思えて、健斗は慌てて前方を見ると歩を早めた。物理的に少し距離を置かないと、自分が何かしでかしそうで、自制できる自信が無い。
「俺がぶつかって美晴さんに迷惑かけたせいだし」
「コーヒー染みならすぐ処置したんで、クリーニング屋さんに出さなくても大丈夫でしたよ」
ちらりと振り返って見てみると、一生懸命主張する美晴の表情が店にいたときよりもあどけない。酔うと隙だらけになるタイプか、と思った瞬間、美晴の体がグラッと揺れた。
「わっ!」
焦った声が聞こえ、ガツッと地面を蹴るような音がした。その途端、健斗の腕に軽い衝撃があり、反射的にそれを受け止める。
「ご、ごめんなさいっ。なんか躓いちゃって」
そう言って謝る美晴を抱きかかえたまま、まじまじと見つめた。少し酔っているせいなのか、潤んだ瞳がまっすぐ健斗を見上げている。そのまま黙って見つめ合っていると、次第に美晴の頬が赤くなってきた。
「そんな、……見ないでください」
「俺このままじゃ、コーヒーとか大人しく飲んでいられなさそうなんで、危険です」
そう囁く声がかすれていた。自分の態度がなるべく威圧的に見えないことだけを、ひたすら祈る。今すぐ押し倒したい。そんなぎらつく欲望を抑えるのに必死だ。
美晴は一瞬目を見開いたあと、すぐに目を伏せた。その仕草がなにか痛みをこらえるかのように見えて、健斗はたまらず彼女を強く抱きしめる。
「美晴さん」
「……いいです」
それでも
そう小さく告げる美晴の声が、健斗の胸にくぐもって響いた。