一夜限りと思ったワンコ系男子との正しい恋愛の始め方

 立ち去ろうとしたところで呼び止められ、美晴は振り返った。井草が弁当の入った袋を両手で抱え、美晴を真っ直ぐ見つめている。

「名前も名乗らず、すみませんでした。俺、井草(いぐさ) 健斗(けんと)と言います」
「……私は、浅川(あさかわ) 美晴(みはる)です」

 なんとなくつられて自己紹介をしたが、今更これは必要なんだろうかと美晴は思う。そんな彼女の考えを読んだのか、井草が一歩近付いた。

「あの、ここを教えてくれたお礼に俺のオススメも教えたいんで、今度一緒にランチ食べに行きませんか?」

 誘う文句は軽いのに、切羽詰まった言い方と強張った表情が重々しい。なんだか果たし状を突きつけているような迫力だ。ただその瞳が不安げに揺れていることに気付き、美晴はつい笑いそうになってしまった。

「魅力的なお誘いですが、私の昼休憩って十一時半からなんで、多分井草さんたちと合わないのではないかと」
「あ……」

 今度は捨てられた仔犬の雰囲気だ。なんだか胸がきゅっと苦しくなって、美晴はとっさに思いついたことを口にしてみた。

「夜ご飯とか、……どうでしょう?」

 言い終わってから、図々しい提案だったかと不安になる。だがその心配は杞憂だったようだ。一瞬だけ井草の目が見開いて、それからゆっくりと細められた。その目元の変化だけで、彼が尻尾を振って喜んでいるように見えてしまう。

「連絡先、交換していいですか?」
「はい」
「名前、miharuになっている……。あの、美晴さんって呼んでもいいですか?」
「え、いいですよ。井草さんは……、ケンケン?!」

 言葉の響きから犬を二つ重ねたように勝手にイメージされてしまう。さらにそのイメージが合っていると教えるように、彼のアイコンは笑う犬のイラストだった。耐えられずに吹き出してしまい、美晴は慌てて口を押さえる。

「なんでそこで爆笑……?」

 解せない表情の井草を前に、より一層笑いがこみ上げる。けれどこのままでは相手に失礼だと思い、美晴は必死に笑いを抑えた。

「わっ、私は、井草さん呼びでっ」
「……まあ、今は」

 こんなふうに偶然から始まった二人の交流。それが自分にとってかけがえのないものになるとは、この時の美晴には思いもしないことだった。


< 7 / 97 >

この作品をシェア

pagetop