◇水嶺のフィラメント◇
──でも、もうリミットは近付いている……この場所が知れて店主が罰せられてしまう前に、どうにか此処を離れなければ──
顔を覆う冷たい掌に、温かな吐息が触れる。
その時階下より勢い良く駆け上がる足音が響いた。
奏でるリズムからフォルテのものだと察せられたが、あれほど「物音には気を付けるように!」と、侍従たちに口うるさく注意していた本人のものとは思えぬ慌てようだ。
もしやリムナトの誰かに居場所がバレてしまったのだろうか?
アンシェルヌは寝台から立ち上がり、祈るように胸元で両手の指を絡めた。
その手が深奥の振動を知る。
血液を集め、送り出すその臓は、いつにも増して激しく拳を揺らした。
「ひ、ひ、ひ、姫さまっ!!」
扉は鼓動に負けぬ速度で開かれた。フォルテの大声が心臓の響きを掻き消した。
「……あ……あぁ……」
艶やかな唇から言葉にならない声が、葉を重ねたような濃い翠の瞳から涙が、泉の如く溢れ出した。
フォルテに続いて現れたその御姿に、アンシェルヌの心音は平穏を取り戻していた。
──……間に合って、くれた……──
「遅くなって、本当にごめん……アン」
この時彼女は気付いただろうか? 窓の外では優しい雨が降り出していたことに──。
◆挿絵のアンの髪を覆っているのは、ルネサンス時代の貴族女性に流行した「クレスパイン」というメッシュ状の装飾です。
顔を覆う冷たい掌に、温かな吐息が触れる。
その時階下より勢い良く駆け上がる足音が響いた。
奏でるリズムからフォルテのものだと察せられたが、あれほど「物音には気を付けるように!」と、侍従たちに口うるさく注意していた本人のものとは思えぬ慌てようだ。
もしやリムナトの誰かに居場所がバレてしまったのだろうか?
アンシェルヌは寝台から立ち上がり、祈るように胸元で両手の指を絡めた。
その手が深奥の振動を知る。
血液を集め、送り出すその臓は、いつにも増して激しく拳を揺らした。
「ひ、ひ、ひ、姫さまっ!!」
扉は鼓動に負けぬ速度で開かれた。フォルテの大声が心臓の響きを掻き消した。
「……あ……あぁ……」
艶やかな唇から言葉にならない声が、葉を重ねたような濃い翠の瞳から涙が、泉の如く溢れ出した。
フォルテに続いて現れたその御姿に、アンシェルヌの心音は平穏を取り戻していた。
──……間に合って、くれた……──
「遅くなって、本当にごめん……アン」
この時彼女は気付いただろうか? 窓の外では優しい雨が降り出していたことに──。
◆挿絵のアンの髪を覆っているのは、ルネサンス時代の貴族女性に流行した「クレスパイン」というメッシュ状の装飾です。