◇水嶺のフィラメント◇

[2]濁り出した水 〈R〉

 「これ」は幻ではなかろうか? いや、どうせなら「これ」だけが現実であってくれればと、つい願わずにはいられなかった。

 他の全ては幻であってくれたなら……自国の兵たちが同盟国で反乱を起こしたという噂も、そのために此処に(かくま)われていることも……全てが夢か嘘であってくれたら、どんなに救われるかと思っていた。

「ごめん……久し振りに泣かせてしまったね」

 背後の影に道をあけるように、フォルテがそっと退いた。その長身が全貌を(あら)わにして、「これ」が幻などではないことに気付かされた。

 しかしそれは他の全てもが現実であることも知らしめる。声の(ぬし)の装いが普段とはまったく違ったからだ。きっと人目を避けるための変装に違いなかった。

「良かった……ご無事で」

 歩み寄る彼を見上げる。

 アンシェルヌの口元は微笑みを(たた)えても、それ以上言葉にはならなかった。状況によってはもう二度と会えぬのではないかと案じていたからだ。

「君こそ、アン」

 親しみのこもった「アン」と呼ばれるのは、ルーポワに向けて国を出て以来だ。こそばゆい嬉しさに思わず瞳を細める。

 やがて目の前まで辿り着いた長い腕が、彼女の細い身体を包み込んだ。庶民に扮した()()りの外套(マント)が頬に心地良い。

 が、サンディブロンドの毛先が掛かる肩先には、細かな水玉が散らばっていた。ああ、この雨がこの人を連れてきてくれたのだと、アンシェルヌは──(いな)、アンは天に深く感謝した。


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