優しい嘘

ぶくぶくと沈んで

距離感近めなのに、ある一定のところからは踏み込ませてくれなかった。たとえば、一緒に銭湯に行くとか、たとえば、一緒の部屋で着替える、とか。
咲久の声が高めなことも気にはなっていた。本人は、声変わりしなかったんだよ、と言っていたけれど。
性同一性障害なのかもしれないと思ったけれど、それを両親が俺に伝えないのも不自然だった。

「ただいま」

夕方からの喫茶店でのバイトを終えて帰宅する。俺のバイト先は父親の古くからの友人が経営している喫茶店だ。働いているのはマスターと俺だけ。お客様も常連の方が多い、落ち着く感じの、カフェというよりは喫茶店という表現の方が似合う店だ。

「光輝、おかえり。先に風呂入ってこいよ。その間にハンバーグ焼くから」
「今日ハンバーグなの?」
「俺が食べたかったからハンバーグにしました」

リビングでテレビを見ていた咲久が振り返る。
笑っている咲久のことを可愛いと思ってしまうのは兄弟、いや兄妹だからだ。そう思いたい。
俺が帰る時間を把握していたからかお風呂もしっかりと沸かされていた。
湯船に浸かりながら、咲久のことを考える。男性のふりをしている理由。両親がそれを俺に伝えてこない理由。それから、衣服の下に隠されている、本当の身体。けして、咲久のことをいやらしい目で見ているわけではないけれど。
口元までぶくぶくと沈んで、考えることを一旦止める。
咲久が男性として俺と過ごすなら、男性として生きていくなら、俺は兄としてそれを支えていくしかない。血の繋がりはなくても、俺は咲久の兄なのだから。

「こうきー」

脱衣所から咲久の声が聞こえる。

「ハンバーグ冷えるんだけどー?」
「ごめん、すぐに出るー」

深く考えないなんて無理だけど、今は考えることを放棄しよう。
この秘密が秘密じゃなくなったとき、家族の幸せは壊れてしまうかもしれないから。
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