月下双酌 ─花見帰りに月の精と運命の出会いをしてしまいました─
 何か引っかかりを感じ、また聞き返す。心臓の鼓動が、知らずに早くなっていた。

「爪の根元に、白い月みたいなのが有りますよね。あれです。爪の半月って書くんですけど。
 別に無くても健康には関係ないけど、やっぱりあれが綺麗に見えていたほうが、見た目のバランスがいいんですよ」

 佐藤さんのスイッチが入った様で、やけに熱く語りだした。
 そっと彼女の指先に視線を移してみると、爪に綺麗に彩色が施され、なおかつワンポイントのアクセントが付いている。どう考えても、手作業がしにくそうな指。あれでキーボードを叩き、書類の作成は人一倍早いのだから素晴らしい。
 でも、そんなことはどうでも良かった。気を取られるべき点は別にあった。

「佐藤さん」
「はい?」
「ありがとうね」

 意味が分からないといった表情の後輩を残し、仕事に没頭する振りをする。彼女も仕事を再開したのを横目で確かめると、私は自分の指先を見つめた。

 そして終業後──。

 最寄駅を降りてコンビニで缶ビールを二本とコロッケを買うと、公園へと向かう。日の暮れるのも早くなった。定時上がりで真っ直ぐ帰っても、もう辺りは暗い。
 夜空にぽっかりと浮かぶのは、満月。
 遊歩道の中ほど、小さな池に面したベンチに腰を下ろすと、月に向かって右手をかざす。

 月光と街灯に照らされる、指先。
 爪の根元に白く浮かぶのは、爪半月。親指、人差指、中指、薬指、小指。一本ずつ確かめるように眺めると、もう一度、人差指を見つめた。
 この指にだけ、見つからない爪半月。

「暗月、聞こえる? 印、分かったよ」

 てっきり、私に何かを残していったのだろうと思ったのに、その反対に彼は私から一つ奪っていた。私の中の月の欠片。大切な、私の欠片。

「暗月」

 囁くと、ゆらりと空気が揺れた。淡い光が浮かび上がり、人の形になる。まるでここにずっといたかの様に、その人は立っていた。

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