エリート課長の脳内は想像の斜め上をいっていた

05.斎藤課長は絶望する

 このままお試し期間は過ぎていき、お互いを好きだと確認して恋人になるものだと思っていたのに。
まさか、こんなことになるとは。

「―と、いうことが昼間ありまして、週末は坂田部長の姪っ子さんの働いているエステに行くことになりました」

 帰宅途中でスーパーに寄って食材を買い、エプロンをつけた麻衣子と一緒にキッチンに立ち料理をするという新婚夫婦のような幸せな一時。

 夕食を食べて、食後の珈琲を入れ終わったタイミングで麻衣子の口から出た言葉に、隼人の頭の中は真っ白になった。


『見てハヤト、貴方のために綺麗になりたいと思って脱毛したの』
『えっ』

 一年半前、当時の恋人から脱毛したと告げられた時の光景と現在が重なる。


「ぶっ!」

 勢いよく隼人の口から吐き出される珈琲の茶色いしぶき。

 がちゃんっ!
 隼人の手から離れたマグカップがけたたましい音を立ててフローリングの床へ落ちる。

 床へ散らばる破片と珈琲には目もくれず、隼人は全身を激しく震わして麻衣子を凝視した。

「なん、なっ、なんだって……」
「ちょっ、隼人さん?」

(エステへ行くなど、俺の性癖を伝えてあるのに、君は俺を裏切ろうというのか? 違う。違う、麻衣子さんはそんな女じゃない。上司から誘われたら部下は断れないだろうし、特に麻衣子さんは“無料体験”と言われたら気軽に行ってしまうかもしれないくらい、警戒心が薄い。それよりも部下にエステへ行くよう頼むなど、パワハラだろうが!!)

 混乱する思考の中、そう結論を出して悲しみやショックよりも怒りの感情が湧き上がり、感情そのままの言葉が口から出ていた。

 目を瞑り俯いてしまった麻衣子は十数秒後には勢いよく顔を上げ、彼女から発せられる不穏な空気に戸惑う隼人を睨みつける。

「ま、麻衣子、さん?」
「隼人さんなんて嫌いっ!!」

 言い放った勢いに圧され、隼人は上半身を仰け反らせる。

 怒りのあまり潤んでいた麻衣子の両目から、涙がポロリと零れ落ちた。
握り締めた両手に力がこもっていき、振り上げそうになった麻衣子は下唇をきつく噛んで堪えた。

「嫌い、嫌いよ! 絶対にエステへ行って脱毛をしてツルツルの足になってやるから!!」

 椅子の上に置いたバッグを掴み、麻衣子は玄関に向かって走り出した。

「麻衣子さんっ!?」

「嫌い」と言い放たれた麻衣子の声が脳内で何度も反響して響く。

 苦しくなる呼吸と、思考が真っ白になるほどの衝撃の強さですぐに反応できなかった。
 勢いよく閉まるリビングの扉の音で我に返り焦って麻衣子へ声を掛けるが、玄関を飛び出た彼女は一立ち止まることはなかった。




 ***




(録り溜めたアニメを見ようと思っていたのに、クソッ!)

 珍しく電話ではなくメッセージアプリで呼び出してくれた兄の身勝手さに苛つき、内心悪態をついた崇人の足取りは重い。

 今日が定休日だということで麻衣子を紹介する気になったのかと、来る途中で立ち寄ったスーパーで買ったワインを片手にマンションを訪れた。

「兄貴―、急に呼び出して何の用、うっ!?」

 廊下からリビングへ続く扉を開け一歩足を踏み入れ、室内に充満する異様な雰囲気に息をのむ。

 奈落の底に落ち、今まさにこの世の終わりだという絶望と悲壮感漂わせた隼人が、ソファーの上で抱えた両膝に顔を埋めていたのだ。

「ちょっ、何があったんだ!?」

 駆け寄った崇人に肩を揺すられて、隼人はのろのろと顔を上げる。
 顔を上げた隼人の顔色の悪さと泣き出しそうな顔を見て、ギョッとなった崇人は一歩後退った。

「うう、麻衣子さんが、麻衣子さんが、泣きながら出て行った」

 乾いた喉の奥から絞り出した声は、普段の自信に満ちた声とは全く違う弱弱しくか細い声だった。

「スマホの電源も切っているらしくて、連絡もつかないし所在も分からないんだ」
「え、まさかと思うけど、場所検索を付けていたのかよ」

 本人の同意無しに検索アプリをつけていたのかと引きつつ、崇人は麻衣子が出て行った状況を萎れきった兄から聞き、溜息を吐いた。
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