天敵御曹司はひたむき秘書を一途な愛で離さない
事件
 現地視察を終えた一向は今度は近くにある古い日本家屋を訪れる。土地の所有者の家である。
 大地主だというその家の主人はつい一週間前に怪我をして入院中だという。代わりにその息子が古い居間で三人を出迎えた。
「この辺りは昔は畑ばかりだったんですよ。土地も広いばっかりでなんの役にもたたなかったのに、急にこんなことになってもうびっくりですよ」
 区画整理によって土地の値段が上がりこの辺りの地主たちの生活はここ数年で大きく変わったという。いい値段で売れるなら、それを元手に都市部へ引越していった人も多いという。
「でもうちはここを離れるつもりはないですから、べつに土地を売る必要はないんですがね」
 やや勿体ぶってそう言う男性の目が自分を見ているような気がして、なぜだかわからないけれど、穂乃果の背筋がぞくりとした。
「はははは。ですが、まぁ一応は、お父さまからはいいお返事をいただいておりまして、こちらが購入を検討されている獅子王不動産の獅子王副社長です」
 取りなすように担当者が言い、拓巳が名刺を差し出している。いい土地はどこの企業も欲しがっているから、立場としては向こうの方が上なのだ。
「さっき見てきましたが、いい場所ですね。皆さんが欲しがられるのは納得です」
 拓巳が穏やかに口を開き、交渉が開始する。穂乃果はそれを隣で聞いていた。
 父親である地主本人と獅子王不動産の条件は概ね合致しているはずで後は契約行為に移るのみだった。だが高齢の地主は少し前に風呂で転んで骨折し、入院してしまったのである。代わりに対応している息子が、条件を勝手に釣り上げていることに担当者は冷や汗をかいていた。
 一方で拓巳の方は特に気にする様子もなく、相手の話を粘り強く聞いている。このようなことは不動産取引の場ではしょっちゅうだから、慣れたものだった。
「いやしかしそれでは……おや?」
 しばらくやり取りを続けてから地主の息子がなにかに気がついたように声をあげた。
「そういえばまたお茶をお出ししていませんでしたね。いや妻が親父の病院へ行ってしまって家におりませんから、うっかりしていました。今、淹れてきましょう」
 そう言って立ち上がる。
 担当者も拓巳も「おかまいなく」とは言うものの、横暴な条件をふっかける男性に少し辟易としていたのだろう。無理には止めなかった。
 部屋を出ていこうとする男性が振り返り穂乃果を見た。
「申し訳ないがお嬢さん、一緒に来てくれないか。私は普段は台所になど立たんから茶の淹れ方もわからんのだよ」
 その言葉に、拓巳が眉を寄せてなにかを言いかける。穂乃果はそれを視線で止め、そのまま男性に従った。
 こういうことは珍しくないことだった。
 最近では女性も多くなってきてはいるものの、不動産業界はまだ男性優位な側面が強い。特に穂乃果のように若い女性はあまりいないから、このように軽んじられるという場面に出くわすことも多いのだ。
 そのことにいちいちめくじらを立てていては交渉事はうまくいかない。
「湯呑みはその辺りにあるはずだ。茶っ葉は確か……」
 口で指示を出すだけで、なにひとつ自分ではやろうとしない男性の隣で穂乃果は黙って急須に茶っ葉を淹れる。
 なんとなく距離が近いのが不愉快だった。
 早く淹れてしまって、あちらに戻りたい。でも肝心の湯がなかなか沸かなくて、湯呑みを見つめたまま沈黙する。
 こんな時に世話話をするくらいは普段の穂乃果だったらできる。でも今はじっとりと穂乃果を見る男性の視線をこれ以上ないくらいに不快に思い、なにも言葉が出てこなかった。
 しばらくすると、火にかけたヤカンからようやく湯気が立ち始める。
「そろそろかな」
 呟いて伸ばそうとした手を男性に掴まれた。
「ひっ……!」
 穂乃果の喉から引きつったような声が出る。掴まれた手から悪寒のようなものが身体中を駆け巡った。
「綺麗な手だね。最近では君みたいな可愛い子も不動産の仕事をしてるんだな。こんなことなら、はじめから親父の代わりに対応すればよかった。君いくつ?」
 そう言って男は穂乃果の手をザラザラした手ですりすりとする。気持ち悪くてたまらなかった。拓巳を呼ばなくてはと思うのにどうしても声が出てこない。
「えらいねー、東京からこんな田舎にくるなんて」
 もう一方の男の手が、穂乃果の腰に回された、その時。
「なにをしている!」
 鋭い声とともに穂乃果はぐいっと腕を引かれて男性から引き離される。息を呑み目を閉じて開いた時には、男から穂乃果を庇うように立つ拓巳の背中の後ろだった。
「戻りが遅いから来てみれば、これはいったいどういうことだっ!」
 拓巳の怒号に、不動産屋も驚いて駆けつけた。
「ちょっ……ちょっとあたっただけじゃないか! おおお大袈裟なっ!」
 男が青ざめながら言い訳をする。
 だが拓巳は納得しなかった。
「手を掴んでいただろう! 腰にも腕を回していた。あたっただけなんて言い訳は通用しない! 今この場で警察を呼んだっていいんだぞっ!」
 怒りを露わにして追求する拓巳に男は真っ青になる。でもすぐに狡猾な笑みを浮かべて口を開いた。
「そそそんなことをしてみろ。親父の土地はおたくさんに売らないよ。こここの取引は破談だ!」
 今度は、その言葉を拓巳の背中で聞いていた穂乃果が青ざめる。あの土地は確実に大きな利益をもたらすことがわかっている土地で、どうしても欲しい場所なのだ。
 獅子王不動産の支店担当者が一年に渡り地主と交渉し、ようやく契約までこぎつけようとしていたのに。
 拓巳が男に向かって口を開いた。
「いかようにいてくださっても結構です。こちらとしても今回の件をうやむやにするつもりはありませんから、どのみち円満な取引は無理でしょう。そうと決まったらこちらに長居する必要もない。このまま失礼させていただきます」
 そう言って、唖然とする男、真っ青になる不動産屋を横目に、穂乃果の手を引いて一旦居間へ向かう。ふたり分の荷物を掴むと、いとまも告げずに玄関を出た。
「ふ、副社長……!」
 手を引かれながら外へ出て、車までたどり着いたところでようやく穂乃果は声が出る。
 拓巳が立ち止まって穂乃果を見た。
「ダ、ダメです。こんなの」
「なにがダメなんだ」
 拓巳が険しい表情で問いかけた。
「だって、こんなことで計画が流れるなんて……!」
 この地区のマンション建設計画は、もう随分前からたくさんの社員が関わって順調に進んでいた。このままいけば、確実に利益を生む計画なのだ。
 穂乃果のせいで流れるなんて、そんなことはあってはならないと思う。
「も、戻って、私謝りますから!」
 今からならもしかしたら間に合うかもしれない。その穂乃果の言葉に拓巳が鋭く言い返した。
「どうして謝るんだ! 君は被害者だろう⁉︎」
 厳しいと言われている彼だけれど、部下に大きな声をあげることはあまりない。穂乃果は目を見開いて彼を見つめた。
「俺は社員を犠牲にしてでも計画を成功させたいとは思っていない! 今までも社員に理不尽な思いをさせて利益を出したことは一度だってないんだ」
 その言葉が穂乃果の胸を刺した。そうだ、彼はいつも部下と社員を思いやる。だから厳しくとも彼の元へは人が集まる
 それは三年間そばにいた穂乃果も知っていることだった。
「副社長!」
 不動産屋が、地主宅から転がるように追いかけてきて拓巳に呼びかけた。
「も、申し訳ありません! あの息子は地元では評判のよくない人物でしたから、我々も警戒していたんですが、まさかこんな……」
「申し訳ありませんが、一旦すべてストップしてください。契約前ですから可能でしょう。とにかく今は彼女のケアが最優先ですからこのまま失礼させていただきます」
 そう言って彼は有無を言わさず穂乃果を車に乗せて、出発するよう運転手に告げる。
 車は静かに発車して、ふたりは地主宅を離れた。大きな通りに出て完全に町の景色が変わった頃、穂乃果の目から涙が溢れた。
 拓巳が穂乃果の肩を抱く。大きな手が優しく頭を撫でた。
「もう大丈夫だ」
 頭の中はぐちゃぐちゃだった。男に触られた不快感とどうやっても声が出ないという恐怖、それから大切な計画が流れてしまったのだという事実、すべてのことがいっぺんに押し寄せて、涙を止めることができなかった。
「俺がそばにいたのに……ごめん。もう大丈夫だ」
 彼の腕に抱かれて涙を流しながら、穂乃果はようやく安心する。
 もう大丈夫。
 でもそれとは別の不安が胸に広がっていくのを感じていた。
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