天敵御曹司はひたむき秘書を一途な愛で離さない
見合い話
日が沈んで薄暗い自宅までの道のりを穂乃果はトボトボと歩いている。
なにもかもが虚しく感じた。
明日からの北海道出張は、獅子王不動産の将来を左右すると言っても過言ではない重要な案件だ。今までの穂乃果なら、そこに立ち会うことができるだけで、わくわくしていただろう。尊敬する上司の仕事ぶりを間近で見ることができるのだ、勉強になると期待に胸を膨らませていた。
でも今穂乃果の胸を満たしているのは、それだけでは嫌だというわがままな思いだった。
上司としての彼だけではなくて、彼のすべてを手に入れたいという強い欲求だった。自ら別れを告げてから二週間、自分のしたこととは真逆の思いに穂乃果は苦しめられ続けている。
家に着くと、お客が来ていると玄関で出迎えた母に告げられる。応接で兄が対応しているようだった。ならば邪魔にならないように、穂乃果が二階へ行こうとすると、応接から顔を出した兄から声がかかった。
「穂乃果、コーヒーのおかわりを淹れてくれ。ふたり分だ」
一瞬、なぜ私が?と思いながらも深くは考えずにキッチンへ引き返す。コーヒーをふたつ盆に乗せ、応接へ入ると来客は二ノ宮不動産の社員のようだ。
パリッとしたスーツの襟に会社のバッチを着けている。穂乃果が入るとふたりともこちらを向いた。
「失礼します」
穂乃果はそう断りを入れてコーヒーを置く。そこで兄が口を開いた。
「楠木(くすのき)君、妹の穂乃果だ」
楠木と呼ばれた男性が穂乃果に向かってにっこりと微笑んだ。
「楠木です」
「穂乃果です。いつも兄がお世話になっております」
穂乃果もそれに応えた。
「彼は今、二ノ宮(うち)で一、二を争う成績優秀な社員なんだ。将来の俺の右腕だ」
兄が得意そうに言うのに穂乃果は「へぇ、すごい方なんですね」と微笑んだ。
実際、兄も拓巳に負けず劣らず仕事には厳しいという。その兄が手放しで褒めるのだから相当優秀なのだろう。
「副社長、買い被りすぎですよ。これ以上プレッシャーをかけないでください」
そう言う彼は笑顔が爽やかな、好印象の男性だった。
当たり障りのない言葉を二、三交わして、穂乃果はそのまま応接を出る。二階の自分の部屋で出張の準備が出来上がった頃、兄に呼ばれた。来客の男性はすでに帰ったあとだった。
「穂乃果、さっきの彼はどうだった?」
穂乃果がリビングに入るなり上機嫌で兄は言う。隣で母が困ったような顔をしている。
言葉の意図がわからずに穂乃果は首を傾げた。
「どうって……?」
「いい男だろう?」
「え……うん、まぁ」
穂乃果は曖昧に答える。正直言ってあまりちゃんと顔を見ていなかったから、爽やかだなということ以外はあまり覚えていなかった。
「爽やかだなって感じがしたけど」
すると兄には嬉しそうに頷いて、口を開いた。
「だろう? お前の見合い相手だ」
「……え?」
突然の言葉に穂乃果は唖然としてしまう。首を傾げたまま母を見ると、彼女はますます困ったように兄を見ていた。
「なにを驚いているんだ。お前の相手は俺が選んでやると言っていただろう。彼は仕事ができるだけではなく人柄も申し分ない。彼ならお前を任せられる」
自信満々で満足げな兄に、穂乃果は開いた口が塞がらなかった。確かに兄は穂乃果の相手は自分が探すとよく言っていた。でもまさか本気だったなんて。
「来年には、本社のグループマネージャーに昇格させようと思ってる。年齢もお前の五つ上だからちょうどいいし」
「そ、そんな勝手に決めないでよ、お兄ちゃん!」
穂乃果は慌てて兄を止めた。
「そんな、冗談でしょう?」
「冗談なんかじゃないさ。彼ほどの男はなかなかいないから前々からどうかなと思っていたんだ。今彼女はいないと言うから、うちの穂乃果はどうだとさっき言ったら、まんざらでもなさそうだったぞ」
穂乃果は腰柔らかそうな話し方の楠木を思い出す。そして同情的な気分になった。会社の役員から妹をどうだと言われて即座に断れる会社員がいったいどこにいるのだろう。
兄自身に悪気はなくとも、生まれた時から後継ぎだと決まっている人生を歩んできた分、こういうところは配慮が足りないと感じた。
「お兄ちゃん、そんなことを言ったら楠木さんがかわいそうじゃない。副社長から妹を勧められて断れるわけがないでしょう?」
「断る理由がどこにある? 穂乃果に不満があるわけがないだろう」
「もー」
穂乃果は一気に脱力する。兄には歳が離れている分、可愛がってもらった記憶しかない。公園でコケれば、起こしてくれて帰りはおんぶしてくれた。お菓子は必ず全部を穂乃果にくれた。だから穂乃果は兄が大好きだし、感謝してもいる。
でもここまでくればいきすぎだ。
不満もなにも穂乃果と楠木はほんのふた言三言、言葉を交わしただけなのだ。
「とにかく、私はその気はないから。お兄ちゃんも変なこと言って楠木さんを困らせないようにしないと、優秀な社員に逃げられるよ」
そう言って自分の部屋に戻ろうとする。でもそれを、兄に止められた。
「待ちなさい、穂乃果。さてはお前、やっぱり男ができたんだろう。最近朝帰りが続いてたからあやしいと思ってたんだ」
その言葉に穂乃果はどきりとする。金曜の夜に拓巳のマンションへ行く時は、母にメールをして兄にはうまく言ってもらうようにしていた。
母を見ると彼女は無言で首を振っている。母が兄になにかを言ったというわけではなさそうだ。
「飲み会も同僚も嘘だろう。男と会ってたんじゃないか。家族に隠れて会うしかない相手なんてどうせろくな奴じゃない。とにかく……」
「もういい加減にしてよ、お兄ちゃん!」
頭ごなしに言う兄に穂乃果は反射的に強く反発してしまう。『家族に隠れて会うしかない相手』という言葉が胸を刺した。
確かに拓巳は家族に紹介できる人ではない。でもろくな奴じゃないなんてことは決してないのだ。
「彼はそんな人じゃないわ! 私の結婚なんだから私が自分で決める勝手なことしないでよ!」
すでに拓巳とは別れているとはいえ黙ってはいられなかった。
飲み会の話は嘘だったということを肯定するような穂乃果の言葉に兄がますますヒートアップする。
「穂乃果! お前、いったいどんな男と付き合ってるんだ? 獅子王の社員か⁉︎ どんな奴だ!」
「お兄ちゃんには関係ないでしょう?」
お互いに頭に血が昇り、兄妹は派手な言い合いになる。慌てて母が止めに入った。
「お兄ちゃんちょっと落ち着いて、お見合いの話だなんていくらなんでも、唐突すぎるわ。お父さんもいないのに……」
父は友人とゴルフ旅行で今日は不在にしている。穏やかで優しい父はどちらかというと穂乃果の意志を尊重してくれるから、ここにいたら兄を止めてくれるだろう。
もしかしたら兄は父が不在にしているこの時を狙ってわざと話を出したのかもしれないと穂乃果は思った。
いずれにせよ馬鹿にしたような話だ。穂乃果は兄を睨んだ。
兄がため息をついた。
「穂乃果、その彼氏が家族に紹介できるような男なら、ちゃん連れてきなさい。二ノ宮家(うち)に生まれた限りは結婚相手は誰でもいいというわけにはいかないんだ。財産目当てで近づいてくるような奴もいる。家族になるんだから会社にも影響しないとは限らないんだから」
諭すような兄の言葉に言葉を返すことはできなかった。
その通りだと思ったからだ。
二ノ宮不動産は親族経営で成り立っている。穂乃果の結婚相手はそういう意味でも無視できない存在だ。
やはり自分の結婚は家と切り離すことはできないのだ。
「穂乃果、どうなんだ」
重ねて問いかけられて、穂乃果は唇を噛む。そのままくるりと兄に背を向けて、リビングを出た。
なにもかもが虚しく感じた。
明日からの北海道出張は、獅子王不動産の将来を左右すると言っても過言ではない重要な案件だ。今までの穂乃果なら、そこに立ち会うことができるだけで、わくわくしていただろう。尊敬する上司の仕事ぶりを間近で見ることができるのだ、勉強になると期待に胸を膨らませていた。
でも今穂乃果の胸を満たしているのは、それだけでは嫌だというわがままな思いだった。
上司としての彼だけではなくて、彼のすべてを手に入れたいという強い欲求だった。自ら別れを告げてから二週間、自分のしたこととは真逆の思いに穂乃果は苦しめられ続けている。
家に着くと、お客が来ていると玄関で出迎えた母に告げられる。応接で兄が対応しているようだった。ならば邪魔にならないように、穂乃果が二階へ行こうとすると、応接から顔を出した兄から声がかかった。
「穂乃果、コーヒーのおかわりを淹れてくれ。ふたり分だ」
一瞬、なぜ私が?と思いながらも深くは考えずにキッチンへ引き返す。コーヒーをふたつ盆に乗せ、応接へ入ると来客は二ノ宮不動産の社員のようだ。
パリッとしたスーツの襟に会社のバッチを着けている。穂乃果が入るとふたりともこちらを向いた。
「失礼します」
穂乃果はそう断りを入れてコーヒーを置く。そこで兄が口を開いた。
「楠木(くすのき)君、妹の穂乃果だ」
楠木と呼ばれた男性が穂乃果に向かってにっこりと微笑んだ。
「楠木です」
「穂乃果です。いつも兄がお世話になっております」
穂乃果もそれに応えた。
「彼は今、二ノ宮(うち)で一、二を争う成績優秀な社員なんだ。将来の俺の右腕だ」
兄が得意そうに言うのに穂乃果は「へぇ、すごい方なんですね」と微笑んだ。
実際、兄も拓巳に負けず劣らず仕事には厳しいという。その兄が手放しで褒めるのだから相当優秀なのだろう。
「副社長、買い被りすぎですよ。これ以上プレッシャーをかけないでください」
そう言う彼は笑顔が爽やかな、好印象の男性だった。
当たり障りのない言葉を二、三交わして、穂乃果はそのまま応接を出る。二階の自分の部屋で出張の準備が出来上がった頃、兄に呼ばれた。来客の男性はすでに帰ったあとだった。
「穂乃果、さっきの彼はどうだった?」
穂乃果がリビングに入るなり上機嫌で兄は言う。隣で母が困ったような顔をしている。
言葉の意図がわからずに穂乃果は首を傾げた。
「どうって……?」
「いい男だろう?」
「え……うん、まぁ」
穂乃果は曖昧に答える。正直言ってあまりちゃんと顔を見ていなかったから、爽やかだなということ以外はあまり覚えていなかった。
「爽やかだなって感じがしたけど」
すると兄には嬉しそうに頷いて、口を開いた。
「だろう? お前の見合い相手だ」
「……え?」
突然の言葉に穂乃果は唖然としてしまう。首を傾げたまま母を見ると、彼女はますます困ったように兄を見ていた。
「なにを驚いているんだ。お前の相手は俺が選んでやると言っていただろう。彼は仕事ができるだけではなく人柄も申し分ない。彼ならお前を任せられる」
自信満々で満足げな兄に、穂乃果は開いた口が塞がらなかった。確かに兄は穂乃果の相手は自分が探すとよく言っていた。でもまさか本気だったなんて。
「来年には、本社のグループマネージャーに昇格させようと思ってる。年齢もお前の五つ上だからちょうどいいし」
「そ、そんな勝手に決めないでよ、お兄ちゃん!」
穂乃果は慌てて兄を止めた。
「そんな、冗談でしょう?」
「冗談なんかじゃないさ。彼ほどの男はなかなかいないから前々からどうかなと思っていたんだ。今彼女はいないと言うから、うちの穂乃果はどうだとさっき言ったら、まんざらでもなさそうだったぞ」
穂乃果は腰柔らかそうな話し方の楠木を思い出す。そして同情的な気分になった。会社の役員から妹をどうだと言われて即座に断れる会社員がいったいどこにいるのだろう。
兄自身に悪気はなくとも、生まれた時から後継ぎだと決まっている人生を歩んできた分、こういうところは配慮が足りないと感じた。
「お兄ちゃん、そんなことを言ったら楠木さんがかわいそうじゃない。副社長から妹を勧められて断れるわけがないでしょう?」
「断る理由がどこにある? 穂乃果に不満があるわけがないだろう」
「もー」
穂乃果は一気に脱力する。兄には歳が離れている分、可愛がってもらった記憶しかない。公園でコケれば、起こしてくれて帰りはおんぶしてくれた。お菓子は必ず全部を穂乃果にくれた。だから穂乃果は兄が大好きだし、感謝してもいる。
でもここまでくればいきすぎだ。
不満もなにも穂乃果と楠木はほんのふた言三言、言葉を交わしただけなのだ。
「とにかく、私はその気はないから。お兄ちゃんも変なこと言って楠木さんを困らせないようにしないと、優秀な社員に逃げられるよ」
そう言って自分の部屋に戻ろうとする。でもそれを、兄に止められた。
「待ちなさい、穂乃果。さてはお前、やっぱり男ができたんだろう。最近朝帰りが続いてたからあやしいと思ってたんだ」
その言葉に穂乃果はどきりとする。金曜の夜に拓巳のマンションへ行く時は、母にメールをして兄にはうまく言ってもらうようにしていた。
母を見ると彼女は無言で首を振っている。母が兄になにかを言ったというわけではなさそうだ。
「飲み会も同僚も嘘だろう。男と会ってたんじゃないか。家族に隠れて会うしかない相手なんてどうせろくな奴じゃない。とにかく……」
「もういい加減にしてよ、お兄ちゃん!」
頭ごなしに言う兄に穂乃果は反射的に強く反発してしまう。『家族に隠れて会うしかない相手』という言葉が胸を刺した。
確かに拓巳は家族に紹介できる人ではない。でもろくな奴じゃないなんてことは決してないのだ。
「彼はそんな人じゃないわ! 私の結婚なんだから私が自分で決める勝手なことしないでよ!」
すでに拓巳とは別れているとはいえ黙ってはいられなかった。
飲み会の話は嘘だったということを肯定するような穂乃果の言葉に兄がますますヒートアップする。
「穂乃果! お前、いったいどんな男と付き合ってるんだ? 獅子王の社員か⁉︎ どんな奴だ!」
「お兄ちゃんには関係ないでしょう?」
お互いに頭に血が昇り、兄妹は派手な言い合いになる。慌てて母が止めに入った。
「お兄ちゃんちょっと落ち着いて、お見合いの話だなんていくらなんでも、唐突すぎるわ。お父さんもいないのに……」
父は友人とゴルフ旅行で今日は不在にしている。穏やかで優しい父はどちらかというと穂乃果の意志を尊重してくれるから、ここにいたら兄を止めてくれるだろう。
もしかしたら兄は父が不在にしているこの時を狙ってわざと話を出したのかもしれないと穂乃果は思った。
いずれにせよ馬鹿にしたような話だ。穂乃果は兄を睨んだ。
兄がため息をついた。
「穂乃果、その彼氏が家族に紹介できるような男なら、ちゃん連れてきなさい。二ノ宮家(うち)に生まれた限りは結婚相手は誰でもいいというわけにはいかないんだ。財産目当てで近づいてくるような奴もいる。家族になるんだから会社にも影響しないとは限らないんだから」
諭すような兄の言葉に言葉を返すことはできなかった。
その通りだと思ったからだ。
二ノ宮不動産は親族経営で成り立っている。穂乃果の結婚相手はそういう意味でも無視できない存在だ。
やはり自分の結婚は家と切り離すことはできないのだ。
「穂乃果、どうなんだ」
重ねて問いかけられて、穂乃果は唇を噛む。そのままくるりと兄に背を向けて、リビングを出た。