天敵御曹司はひたむき秘書を一途な愛で離さない
人事異動
週が明けた月曜日、就業時間の九時を過ぎてすぐに獅子王不動産本社社員へ経営陣からの発表があった。
マンション事業部のいつもの席で穂乃果は部の中央にあるモニター画面に注目をしている。画面の向こうには獅子王不動産社長、獅子王遼太郎(りょうたろう)が拓巳を取締役とする人事について説明をしている。
その中で彼が自分の息子であること、それから取締役副社長に昇格することが発表された。その事実上の後継指名に社員がどよめいている。
事前に知らされていた穂乃果だけがそれを冷静に受け止めていた。
そしてやっぱりそうなのだという絶望にも似た気持ちを感じていた。
もしかしたら彼が御曹司だということは全部悪い冗談で穂乃果をからかっただけのかもしれないという可能性を信じたかった。彼が御曹司などではなく、ただの社員だったならもしかしたら穂乃果の家族も付き合うことを許しつてくれるかもしれない。
でもその希望は、木っ端微塵に砕かれた。
モニター画面の向こうでは既に話手が社長から拓巳に代わっている。まず彼は母の姓を名乗り出身を偽っていたことを真摯に詫び、どうか変わらずに自分についてきてほしいと社員に呼びかけている。
その彼の言葉に、モニターの向こうにこちらからの声は届かないとわかっているはずの社員たちから、拍手と歓声が上がっている。マンション事業部の社員にとっては、彼が御曹司だろうとなんだろうとそんなものはまったく関係がない。彼は彼であり、自分たちのついてゆくべきリーダーだ。
拓巳の挨拶が終わりモニター画面が消えてもまだ拍手は続いている。会社の未来を見据えた最良の人事だと誰も喜んでいた。
金曜日までの穂乃果なら、同じように思っただろう。
いや今だってそう思う。
でも……。
「はー、高杉部長、じゃないや獅子王副社長、カッコよかったね。やっぱりただ者じゃないと思ってたんだ。でもこれですっかり遠い人だね」
「そうだね……」
興奮冷めやらぬ様子の隣の社員と、うわの空で話をしながら、穂乃果は席につく。するとすぐに名前を呼ばれた。
「二ノ宮さん」
「はい、なんでしょうか。課長、と……部長」
拓巳の異動の穴埋め的に課長から昇格した、新部長だった。
前任の拓巳とは違って穏やかな人物だ。人柄はいいが、やや頼りがいに欠けると陰で言われているが、とにかくこれからは彼がここのリーダーだ。
「ちょっとこちらへ。話があるんだ」
促されて穂乃果は彼とミーティングルームに向う。その間、穂乃果は手持ちの仕事をひと通り思い浮かべていた。
なんだかとても嫌な予感がする。
いつもはニコニコしている彼がどこか深刻な表情だからだ。
なにかミスがあったのだろうか。
「二ノ宮さん」
ミーティングルームのドアが締まると同時に新部長は口を開く。ここには机も椅子もあるというのに、座るまもなく話をするというところに穂乃果はことの重大さを感じとる。
なんだろう?
穂乃果の仕事はほぼすべてが拓巳が関わるものだった。異動を前にあらかじめ確認はしてもらっているから、間違いはないはずだ。
だが告げられた言葉はまったく予想外な話だった。
「二ノ宮さん、今日から君は秘書室へ移動だ」
「は……?」
およそ想像していたのとは、まったく違う方向からの話に穂乃果は目を剥いて声を漏らす。
新部長が申し訳なさそうに説明をした。
「私もさっき知ったばかりなんだ。その……高杉部長からの引き継ぎで、ここのところちょっとあまり余裕がなかったからね。で……さっき辞令のメールに気が付いた。申し訳ない……」
就任早々不手際があったと告白する新部長に、こんなことでマンション事業部は大丈夫なのだろうかと穂乃果は少し心配になる。
でもそれよりも、彼の話の内容の方に衝撃を受けていた。
「課……部、部長、どうして異動なんですか。私、なにかしましたか?」
入社以来、ずっと所属していたマンション事業部は厳しいが、その分チームワークは抜群だった。業務自体もやりがいがあって、穂乃果は三年経ってようやく少しは自分の力で成果を出せるようになってきたと感じていたのだ。
さあ、これからと思っていたのに……!
「なにか大きな失敗が……?」
「いやそうじゃないんだ」
新部長が首を振った。
「君はよくやってくれているよ。高杉部長にあそこまでついていける若手はそう多くはない。だからこその人事なんだろう」
「え?」
新部長が口にした拓巳の名に、穂乃果の胸がドキンと跳ねる。だからこそという言葉も不可解だった。
「つまりさっき誕生したばかりの新副社長の秘書に抜擢されたというけだ。……実際、副社長の秘書は君くらいしか務まらない」
いくらなんでもそれは買い被りすぎだと思うけれど、業務時間中は常に会社を動き回り、人の何倍もの成果を出す彼のサポートが大変だとというのは本当だ。
もちろんその分やりがいもある。
でもだからといって……。
「私に秘書課なんて、無理です!」
穂乃果が声をあげると、彼は首を横に振る。
「いや無理じゃないよ、君はすでにそういう仕事をしていた」
「でも……」
なおも穂乃果が言いかけた、その時、新部長の胸ポケットに入れてあった彼の社用携帯が震えた。
彼は画面を確認すると、まずいというように青ざめて急いで通話ボタンを押す。
「お疲れさまです。はい、今、い、いえ大丈夫です。はい、はい、ただいま!」
お疲れさまですと挨拶しているということは相手は社内の人間なのだろう。しかもこれだけあわあわと言っているということは……。
「す、すぐに行ってもらいます!」
電話の相手にそう告げて通話を切っている。やっぱりと穂乃果は思う。
少しのんびりなところがある彼がこんな風に冷や汗をかいているところは、マンション事業部ではよく見る光景だった。
そう、拓巳がいた先週までは。
案の定、新部長が穂乃果を見て、危機迫った様子で指示を出した。
「二ノ宮さん、とにかくすぐに秘書室へ行ってくれ。先方がお待ちかねだ!」
マンション事業部のいつもの席で穂乃果は部の中央にあるモニター画面に注目をしている。画面の向こうには獅子王不動産社長、獅子王遼太郎(りょうたろう)が拓巳を取締役とする人事について説明をしている。
その中で彼が自分の息子であること、それから取締役副社長に昇格することが発表された。その事実上の後継指名に社員がどよめいている。
事前に知らされていた穂乃果だけがそれを冷静に受け止めていた。
そしてやっぱりそうなのだという絶望にも似た気持ちを感じていた。
もしかしたら彼が御曹司だということは全部悪い冗談で穂乃果をからかっただけのかもしれないという可能性を信じたかった。彼が御曹司などではなく、ただの社員だったならもしかしたら穂乃果の家族も付き合うことを許しつてくれるかもしれない。
でもその希望は、木っ端微塵に砕かれた。
モニター画面の向こうでは既に話手が社長から拓巳に代わっている。まず彼は母の姓を名乗り出身を偽っていたことを真摯に詫び、どうか変わらずに自分についてきてほしいと社員に呼びかけている。
その彼の言葉に、モニターの向こうにこちらからの声は届かないとわかっているはずの社員たちから、拍手と歓声が上がっている。マンション事業部の社員にとっては、彼が御曹司だろうとなんだろうとそんなものはまったく関係がない。彼は彼であり、自分たちのついてゆくべきリーダーだ。
拓巳の挨拶が終わりモニター画面が消えてもまだ拍手は続いている。会社の未来を見据えた最良の人事だと誰も喜んでいた。
金曜日までの穂乃果なら、同じように思っただろう。
いや今だってそう思う。
でも……。
「はー、高杉部長、じゃないや獅子王副社長、カッコよかったね。やっぱりただ者じゃないと思ってたんだ。でもこれですっかり遠い人だね」
「そうだね……」
興奮冷めやらぬ様子の隣の社員と、うわの空で話をしながら、穂乃果は席につく。するとすぐに名前を呼ばれた。
「二ノ宮さん」
「はい、なんでしょうか。課長、と……部長」
拓巳の異動の穴埋め的に課長から昇格した、新部長だった。
前任の拓巳とは違って穏やかな人物だ。人柄はいいが、やや頼りがいに欠けると陰で言われているが、とにかくこれからは彼がここのリーダーだ。
「ちょっとこちらへ。話があるんだ」
促されて穂乃果は彼とミーティングルームに向う。その間、穂乃果は手持ちの仕事をひと通り思い浮かべていた。
なんだかとても嫌な予感がする。
いつもはニコニコしている彼がどこか深刻な表情だからだ。
なにかミスがあったのだろうか。
「二ノ宮さん」
ミーティングルームのドアが締まると同時に新部長は口を開く。ここには机も椅子もあるというのに、座るまもなく話をするというところに穂乃果はことの重大さを感じとる。
なんだろう?
穂乃果の仕事はほぼすべてが拓巳が関わるものだった。異動を前にあらかじめ確認はしてもらっているから、間違いはないはずだ。
だが告げられた言葉はまったく予想外な話だった。
「二ノ宮さん、今日から君は秘書室へ移動だ」
「は……?」
およそ想像していたのとは、まったく違う方向からの話に穂乃果は目を剥いて声を漏らす。
新部長が申し訳なさそうに説明をした。
「私もさっき知ったばかりなんだ。その……高杉部長からの引き継ぎで、ここのところちょっとあまり余裕がなかったからね。で……さっき辞令のメールに気が付いた。申し訳ない……」
就任早々不手際があったと告白する新部長に、こんなことでマンション事業部は大丈夫なのだろうかと穂乃果は少し心配になる。
でもそれよりも、彼の話の内容の方に衝撃を受けていた。
「課……部、部長、どうして異動なんですか。私、なにかしましたか?」
入社以来、ずっと所属していたマンション事業部は厳しいが、その分チームワークは抜群だった。業務自体もやりがいがあって、穂乃果は三年経ってようやく少しは自分の力で成果を出せるようになってきたと感じていたのだ。
さあ、これからと思っていたのに……!
「なにか大きな失敗が……?」
「いやそうじゃないんだ」
新部長が首を振った。
「君はよくやってくれているよ。高杉部長にあそこまでついていける若手はそう多くはない。だからこその人事なんだろう」
「え?」
新部長が口にした拓巳の名に、穂乃果の胸がドキンと跳ねる。だからこそという言葉も不可解だった。
「つまりさっき誕生したばかりの新副社長の秘書に抜擢されたというけだ。……実際、副社長の秘書は君くらいしか務まらない」
いくらなんでもそれは買い被りすぎだと思うけれど、業務時間中は常に会社を動き回り、人の何倍もの成果を出す彼のサポートが大変だとというのは本当だ。
もちろんその分やりがいもある。
でもだからといって……。
「私に秘書課なんて、無理です!」
穂乃果が声をあげると、彼は首を横に振る。
「いや無理じゃないよ、君はすでにそういう仕事をしていた」
「でも……」
なおも穂乃果が言いかけた、その時、新部長の胸ポケットに入れてあった彼の社用携帯が震えた。
彼は画面を確認すると、まずいというように青ざめて急いで通話ボタンを押す。
「お疲れさまです。はい、今、い、いえ大丈夫です。はい、はい、ただいま!」
お疲れさまですと挨拶しているということは相手は社内の人間なのだろう。しかもこれだけあわあわと言っているということは……。
「す、すぐに行ってもらいます!」
電話の相手にそう告げて通話を切っている。やっぱりと穂乃果は思う。
少しのんびりなところがある彼がこんな風に冷や汗をかいているところは、マンション事業部ではよく見る光景だった。
そう、拓巳がいた先週までは。
案の定、新部長が穂乃果を見て、危機迫った様子で指示を出した。
「二ノ宮さん、とにかくすぐに秘書室へ行ってくれ。先方がお待ちかねだ!」