天敵御曹司はひたむき秘書を一途な愛で離さない
二度目の夜
一週間ぶりに足を踏み入れた拓巳のマンションのリビングで穂乃果はソファに座り、キョロキョロと部屋の中を見回している。
キッチンからはジュージューというなにかが焼ける音と、食欲をそそるいい香り。一日中みっちりと働いた穂乃果のお腹がぐーと鳴った。
『君には言いたいことが山ほどある』と言われて車を下ろされた時は、この部屋で冷たい言葉を浴びせられるのだろうと覚悟した。自分から告白しておきながら逃げた非礼を詫びてすぐに帰るのだ。
でも部屋に入り、すぐに話をしようとした穂乃果を、拓巳は止めた。
『とにかくメシが先だ。腹が減ってると、ろくな結論がでない。苦手なものはないな』
そう言って穂乃果をソファへ残して、自らキッチンへ行き夕食の準備をしているのである。意外すぎる彼の行動を止めるわけにもいかなくて、穂乃果は仕方なくリビングで待っているのである。そして戸惑いつつあちこちに視線を彷徨わせていた。
先週ここへ来た時は、完全に舞い上がっていたから、正直言ってこの家のことをあまりよく覚えていない。そもそも周りが見えていなかった。今改めてこうやって見てみると、彼のイメージとは少し違うなという印象だった。
獅子王不動産本社ビルからたった数駅の距離にあるこのマンションのことは、職業柄穂乃果も多少は知っている。
コンシェルジュ付きでセキュリティーは万全。ランドリーサービスやハウスキーピングサービスも付いている、このあたりのエリートビジネスマンに人気の物件だ。拓巳が住むのには最適といえるだろう。
でも忙しい生活を送っているの彼ならば、そう多くの時間を家で過ごすことはできないのだから、物の少ない殺風景な部屋を想像していたのだ。
ところが今穂乃果がいるここは、少し様子が違っている。
座りごごち抜群の大きなソファの上には、それぞれ大きさの違う三つのビーズクッションが置いてあり楽な体制でくつろぐことができるようになっている。スリッパはふわふわとして履き心地もいいし、温かみのあるブラウンのラグは大きくて手触りがいい。
散らかっているわけではないけれど、必要な物が必要なところに置いてあって、彼が普段この場所でくつろいでいるのだろうということがありありとわかった。
ここはきっと彼にとって、忙しいビジネスマンにありがちな"寝に帰るだけの場所"というわけではなさそうだ。
ほぼはじめて来た穂乃果にとってもなんだかとても……居心地がいい。
自分がなにをしに来たのかも忘れて穂乃果はしばしリラックスして、窓の外の景色を見つめていた。
しばらくするとキッチンから声がかかる。呼ばれてダイニングに向かうとテーブルには湯気を立てるチャーハンとスープが並んでいた。
「とりあえず、食べよう」
促されて向かい合わせに腰を下ろす。
別れ話をすることが決まっているのに、彼の手料理をご馳走になるなんて、絶対におかしいと思うけれど、空腹には逆らえない。穂乃果は素直に手を合わせた。
「い、いただきます」
ひと口食べて、驚いて目を開いた。
「美味しい」
さっきから可奈子の鼻をくすぐっていた香ばしい匂いに、ある程度予想していたけれど、それにしても思っていた以上に美味しかった。
「副社長……が作られたんですよ……ね?」
確認するようにそう言うと、向かいで同じくチャーハンを食べている拓巳がフッと笑みを漏らした。
「あたりまえだ。作るところを見てただろう」
言葉の内容とは正反対の柔らかな声音、業務中には見られない優しい眼差しに、穂乃果の胸はキュンとなる。
ひとりでに頬が熱くなるの感じながら目を伏せた。
「そ、そうですけど、なんか……意外で」
社内では、仕事の鬼、あるいは強いリーダーとして知られている彼が、こんな風に手際よく料理をするだけでも信じられないのに、プロ級の腕前だなんて。
きっとマンション事業部の誰かに言ったら皆驚くだろう。
「お店で食べるチャーハンみたい!」
「大げさだな。残り物を炒めただけだ。スープはインスタントだし」
そのインスタントのスープですら、一週間働いた身体には染み渡るようで美味しかった。
「母親が家具屋の社長をしていて、俺が小さい頃からほとんど家にいなかった。ひとりでいることが多かったから、このくらいは自然とできるようになったんだ」
そう言って彼はリーズナブルな価格でデザイン性の高い家具ブランドを展開する会社の名前を挙げる。誰もが一度は耳にしたことがあるその会社名に、穂乃果は驚いて目を見開いた。それほど大きな会社の社長なら家にいられなくて当然だ。
「ひと通りの家事は身体に染みついてるな。忙しい時期は外食の時もあるが、簡単な物でも家で食べる方が落ち着くな」
言葉の通り彼は家にいる時間を大切にしているのだろう。それは今まさに彼の家にいる穂乃果にはよくわかった。
そういえば彼は、自社で建てるマンションの設備関係について、的確な指摘を入れることが多かった。仕事一筋でプライベートなど一切ない、スーパーロボットのように思われている彼の意外な一面に、穂乃果の胸がざわざわとした。
これ以上、彼を知りたくないと思う。これから別れ話をする予定だというのに。
あっというまにチャーハンを食べ終えてお腹いっぱいになった穂乃果は、拓巳に促されてまたリビングのソファに座る。
食後のコーヒーを淹れるからと言ってキッチンへ戻っていった拓巳を待つ間、ビーズクッションを抱いてぼんやりと外を眺めていると、なんだか頭がふわふわとして眠たくなってしまう。
これからふたりはいよいよ別れ話をするのだ。もしかしたら非礼な態度で一方的に関係を終わらせようとしたことに対する説教もあるかもしれない。うとうとしている場合じゃないと思うのに、どうしても頭がシャキッとしなかった。
金曜日の夜のこの時間は、穂乃果が一週間の中で一番好きな時間だった。
一週間、大好きな仕事に一生懸命に取り組んだ充実感と心地のいい疲れを感じられるからだ。
しかも今は美味しいご飯でお腹がいっぱい。ビーズクッションは穂乃果の身体にぴったり沿って、キッチンから漂うコーヒー豆の香りがとっても心地いい。このままここで眠ってしまいたいくらいだった。
「……か、穂乃果」
名を呼ばれてハッとする。クッションにもたれていた顔を上げると、いつのまにかすぐ隣に拓巳が座っていた。目の前のテーブルに、コーヒーがふたつ置いてある。
「眠いのか?」
「あ、い、いえ。大丈夫です!」
穂乃果は慌てて、ビーズクッションを脇に置いて背筋を伸ばした。
拓巳がフッと微笑んだ。
「無理するな。今週は本当によくやってくれた、ありがとう。俺が副社長としてまずまずのスタートを切れているのは穂乃果のおかげだ。さすが二ノ宮穂乃果だと思ったよ」
憧れの上司からのこれ以上ないくらいの労いに穂乃果の胸はじーんとなる。一方で、その呼び方には少々の違和感を覚えた。
「でもあの、副社長、名前……」
恐る恐る指摘すると、なにが悪いんだというように、拓巳が眉を上げた。
「プライベートな時間なんだからいいだろう。それにきちんと話をするまではまだ俺たちは恋人同士だ」
"まだ"の言葉に穂乃果の胸がちくりと痛む。もう今すぐにでも始まる別れ話。それが終わったらふたりの関係は元に戻る。呼び方は元に戻るのだ。それでいいはずなのに、これが名前を呼ばれる最後なのだと思うと寂しい思いで胸がいっぱいになった。
「穂乃果」
拓巳が眉を寄せて、真剣な眼差して穂乃果を見る。穂乃果はこくりと喉を鳴らした。いよいよ、別れ話に入るのだ。
でも。
「俺は、別れるつもりはないからな」
予想とはまったく逆の言葉を口にして拓巳はジッと穂乃果を見つめる。
穂乃果は目を見開いて、息が止まりそうになってしまう。
「穂乃果、君が好きだ。ずっと好きだったんだ。君が入社したての頃、とにかくガッツのある子だなと思ったよ。すぐに君がそばにいると驚くほど仕事がやりやすいことに気が付いて、相性がいい子も珍しいと思ったんだ。でもすぐにそれだけじゃないと思い当たった。いつのまにか好きになっていた」
そこまで言って言葉を切り、拓巳は少し遠い目をした。
「だが俺からは言えなかった。君にとって俺は直属の上司だ。俺から言うのはフェアじゃない。それに、一生懸命仕事に打ち込む穂乃果の邪魔になるようなことは絶対にしたくなかった」
「副社長……」
心をギュッと強い力で掴まれたような気分だった。
穂乃果も彼にまったく同じ想いを抱いていたからだ。
はじめはすごく仕事ができる人だなと感心して、しばらくすると彼の近くにいると自分が成長できることに気が付いた。そして夢中で背中を追いかけているうちにいつのまにか好きになっていた。
でも不用意に気持ちを打ち明けて、業務に邁進する彼の邪魔にはなりなくはないと思っていた。
「言うつもりはなかったから、君から告白を受けた時は本当に嬉しかった。こうなったからにはもう簡単に君を手放すつもりはない。先週も言った通り俺は覚悟を持って君を抱いたんだ。一生のパートナーになるつもりだった。……君は違うのか?」
誠実で率直な彼らしい言葉と、その問いかけに、穂乃果は答えられなかった。穂乃果だって一大決心をして告白し、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで彼に抱かれた。決して軽い気持ちなんかじゃない。
でもそれを伝えたら、穂乃果が彼を拒否する理由も言わなくてはいけなくなる。
実は自分はライバル企業の社長令嬢だということを彼に打ち明ける勇気はまだ持てない。
黙り込む穂乃果に、拓巳がためらいながら口を開いた。
「俺が獅子王社長の息子だと黙っていたことに、君が怒りを覚える気持ちは理解できる。複雑な事情があったとはいえ俺は君だけじゃなく、他の部下たちも騙していた」
どうやら彼は、穂乃果の拒否の理由を別の角度から捉えているようだ。眉を寄せて少し申し訳なさそうに詳しい事情を話し始めた。
「言い訳にしかならないが俺が高杉の名で働いていたのは、獅子王一族から後継だと認めてもらう条件だったんだ。父は長男だから俺はいわゆる本家の跡取りになるわけだが、両親の離婚で一度獅子王家を出ているからな。御曹司としてではなく一般の社員として入社して誰もが認める実力をつけることができたら、その時は正式な後継なれるという約束だった。目的を達成するまでは誰にも本当のことを言えなかったんだ。他の社員に対しても申し訳ないことをしたと思っている。もしそれを許せないなら……」
「違います! 私、それは全然気にしていません」
まるで悪いことをしたかのように言う彼を、穂乃果は声をあげて遮った。
確かに穂乃果が拓巳との付き合いを断ったのは彼が御曹司だと知ったからだ。でもそれはあくまでも彼が御曹司だったからであって黙っていたことを怒っているわけではない。
謝られる必要はどこにもない。
「獅子王不動産の後継は、副社長が社長の息子だと知る前から皆副社長がなればいいななんて噂していたんですよ。副社長が獅子王社長の息子だと知って驚いたけど、安心したくらいです。もちろん私も皆と同じ気持ちです」
言葉に力を込めて穂乃果は言う。彼の実力と情熱は会社にとって必要不可欠だということは彼が部長時代から皆知っている。その彼がリーダーになってくれるなら経緯なんてどうでもいい。
穂乃果の言葉に拓巳が「ありがとう」と息を吐く。でもすぐに訝しむように眉を寄せた。
「だがそれなら、俺の出生を知った途端に穂乃果が態度を変えた理由がわからない」
その言葉に穂乃果はどきりとして目を逸らす。黙っていたことを気にしていないなら、他になにがあるんだと言われるのはもっともだ。
またもや黙り込む穂乃果に、拓巳がもう一度ため息をついた。
——そして。
「穂乃果」
温かい大きな手が、穂乃果の頬を優しく包んだ。
「君が、あの告白は間違いだった。俺ほど真剣な気持ちではなかったんだと言うのなら、俺は潔く諦めよう。無理強いはしない」
射抜くような彼の視線が穂乃果を刺した。"そうだった"と頷けば彼は納得して穂乃果と別れてくれる。穂乃果の望む通りになるというのに、どうしても答えることができなかった。
「……なにか事情がありそうだな」
拓巳が難しい表情で呟いた。
彼はたくさんいる部下のひとりひとりを常によく見ていた。体調が悪いのに無理をして出勤した社員、手持ちの仕事がいっぱいで余裕がなくなっている社員に一番先に気が付くのはいつも彼だった。
彼との別れの理由について穂乃果がなにかを隠していることくらいはお見通しなのだろう。
「俺には言えないことなのか。穂乃果」
真っ直ぐな彼の視線がつらかった。穂乃果が出会った中で、彼は一番頼りになる信頼できる人物だ。新卒として入社してから今まで穂乃果がぶち当たったたくさんの困難は彼がいなければ乗り越えられなかっただろう。
でもこればかりはどうしても言うわけにはいかなかった。
「……すみません」
「それは、なにに対するすみませんなんだ。理由を言えないことか? それとも俺と付き合えないことか」
「……両方です」
絞り出すように声を出して穂乃果は目を伏せる。
拓巳が深いため息をついた。
そして——。
「わかった」
彼の口から出た了承の言葉に穂乃果の胸がズキンと痛む。
いったいどこまで自分身勝手なのだろうと穂乃果は思う。自分が望んだことなのに、こんなにも傷ついている。
これで本当に穂乃果の初恋は終わったのだ。穂乃果の視界がじわりと滲んだ、その時。
唐突に腕を引かれて、穂乃果は彼に引き寄せられる。腰に腕を回されてあっというまに彼の腕の中に収まった。
「つっ……!」
彼の香りに包まれて、穂乃果の背中が甘く痺れる。至近距離から見つめる彼の視線がどこか不機嫌な色を浮かべている。
拓巳が低い声を出した。
「じゃあ言えよ、穂乃果。俺のことは好きじゃない、別れようって。はっきりと自分の口で」
まるで挑発するように彼は言う。
でも穂乃果は言えなかった。
彼を好きだという気持ちは本物で、別れなくてはならないならせめてそれだけは大切にしたかったから。
「言えよ、穂乃果」
ゆっくりと近づく唇を穂乃果は焦がれるように見つめる。その唇に触れられば自分の身体になにが起こるかということを穂乃果はもう知っている。
互いの息遣いを感じる距離まで近づいて、拓巳が最後通告を口にする。
「……言えるまでは、お前は俺のものだ」
「っ……!」
唇が重なったその刹那、穂乃果の頭がぴりりと痺れて、あっというまにわけのわからない世界へ飛ばされる。
逞しい腕が穂乃果を甘く縛り付けて、わずかに残っていた退路を断つ。
「穂乃果、俺のものだ」
耳元で繰り返される言葉に抗うことができなくて、穂乃果はまた彼の手に落ちていった。
キッチンからはジュージューというなにかが焼ける音と、食欲をそそるいい香り。一日中みっちりと働いた穂乃果のお腹がぐーと鳴った。
『君には言いたいことが山ほどある』と言われて車を下ろされた時は、この部屋で冷たい言葉を浴びせられるのだろうと覚悟した。自分から告白しておきながら逃げた非礼を詫びてすぐに帰るのだ。
でも部屋に入り、すぐに話をしようとした穂乃果を、拓巳は止めた。
『とにかくメシが先だ。腹が減ってると、ろくな結論がでない。苦手なものはないな』
そう言って穂乃果をソファへ残して、自らキッチンへ行き夕食の準備をしているのである。意外すぎる彼の行動を止めるわけにもいかなくて、穂乃果は仕方なくリビングで待っているのである。そして戸惑いつつあちこちに視線を彷徨わせていた。
先週ここへ来た時は、完全に舞い上がっていたから、正直言ってこの家のことをあまりよく覚えていない。そもそも周りが見えていなかった。今改めてこうやって見てみると、彼のイメージとは少し違うなという印象だった。
獅子王不動産本社ビルからたった数駅の距離にあるこのマンションのことは、職業柄穂乃果も多少は知っている。
コンシェルジュ付きでセキュリティーは万全。ランドリーサービスやハウスキーピングサービスも付いている、このあたりのエリートビジネスマンに人気の物件だ。拓巳が住むのには最適といえるだろう。
でも忙しい生活を送っているの彼ならば、そう多くの時間を家で過ごすことはできないのだから、物の少ない殺風景な部屋を想像していたのだ。
ところが今穂乃果がいるここは、少し様子が違っている。
座りごごち抜群の大きなソファの上には、それぞれ大きさの違う三つのビーズクッションが置いてあり楽な体制でくつろぐことができるようになっている。スリッパはふわふわとして履き心地もいいし、温かみのあるブラウンのラグは大きくて手触りがいい。
散らかっているわけではないけれど、必要な物が必要なところに置いてあって、彼が普段この場所でくつろいでいるのだろうということがありありとわかった。
ここはきっと彼にとって、忙しいビジネスマンにありがちな"寝に帰るだけの場所"というわけではなさそうだ。
ほぼはじめて来た穂乃果にとってもなんだかとても……居心地がいい。
自分がなにをしに来たのかも忘れて穂乃果はしばしリラックスして、窓の外の景色を見つめていた。
しばらくするとキッチンから声がかかる。呼ばれてダイニングに向かうとテーブルには湯気を立てるチャーハンとスープが並んでいた。
「とりあえず、食べよう」
促されて向かい合わせに腰を下ろす。
別れ話をすることが決まっているのに、彼の手料理をご馳走になるなんて、絶対におかしいと思うけれど、空腹には逆らえない。穂乃果は素直に手を合わせた。
「い、いただきます」
ひと口食べて、驚いて目を開いた。
「美味しい」
さっきから可奈子の鼻をくすぐっていた香ばしい匂いに、ある程度予想していたけれど、それにしても思っていた以上に美味しかった。
「副社長……が作られたんですよ……ね?」
確認するようにそう言うと、向かいで同じくチャーハンを食べている拓巳がフッと笑みを漏らした。
「あたりまえだ。作るところを見てただろう」
言葉の内容とは正反対の柔らかな声音、業務中には見られない優しい眼差しに、穂乃果の胸はキュンとなる。
ひとりでに頬が熱くなるの感じながら目を伏せた。
「そ、そうですけど、なんか……意外で」
社内では、仕事の鬼、あるいは強いリーダーとして知られている彼が、こんな風に手際よく料理をするだけでも信じられないのに、プロ級の腕前だなんて。
きっとマンション事業部の誰かに言ったら皆驚くだろう。
「お店で食べるチャーハンみたい!」
「大げさだな。残り物を炒めただけだ。スープはインスタントだし」
そのインスタントのスープですら、一週間働いた身体には染み渡るようで美味しかった。
「母親が家具屋の社長をしていて、俺が小さい頃からほとんど家にいなかった。ひとりでいることが多かったから、このくらいは自然とできるようになったんだ」
そう言って彼はリーズナブルな価格でデザイン性の高い家具ブランドを展開する会社の名前を挙げる。誰もが一度は耳にしたことがあるその会社名に、穂乃果は驚いて目を見開いた。それほど大きな会社の社長なら家にいられなくて当然だ。
「ひと通りの家事は身体に染みついてるな。忙しい時期は外食の時もあるが、簡単な物でも家で食べる方が落ち着くな」
言葉の通り彼は家にいる時間を大切にしているのだろう。それは今まさに彼の家にいる穂乃果にはよくわかった。
そういえば彼は、自社で建てるマンションの設備関係について、的確な指摘を入れることが多かった。仕事一筋でプライベートなど一切ない、スーパーロボットのように思われている彼の意外な一面に、穂乃果の胸がざわざわとした。
これ以上、彼を知りたくないと思う。これから別れ話をする予定だというのに。
あっというまにチャーハンを食べ終えてお腹いっぱいになった穂乃果は、拓巳に促されてまたリビングのソファに座る。
食後のコーヒーを淹れるからと言ってキッチンへ戻っていった拓巳を待つ間、ビーズクッションを抱いてぼんやりと外を眺めていると、なんだか頭がふわふわとして眠たくなってしまう。
これからふたりはいよいよ別れ話をするのだ。もしかしたら非礼な態度で一方的に関係を終わらせようとしたことに対する説教もあるかもしれない。うとうとしている場合じゃないと思うのに、どうしても頭がシャキッとしなかった。
金曜日の夜のこの時間は、穂乃果が一週間の中で一番好きな時間だった。
一週間、大好きな仕事に一生懸命に取り組んだ充実感と心地のいい疲れを感じられるからだ。
しかも今は美味しいご飯でお腹がいっぱい。ビーズクッションは穂乃果の身体にぴったり沿って、キッチンから漂うコーヒー豆の香りがとっても心地いい。このままここで眠ってしまいたいくらいだった。
「……か、穂乃果」
名を呼ばれてハッとする。クッションにもたれていた顔を上げると、いつのまにかすぐ隣に拓巳が座っていた。目の前のテーブルに、コーヒーがふたつ置いてある。
「眠いのか?」
「あ、い、いえ。大丈夫です!」
穂乃果は慌てて、ビーズクッションを脇に置いて背筋を伸ばした。
拓巳がフッと微笑んだ。
「無理するな。今週は本当によくやってくれた、ありがとう。俺が副社長としてまずまずのスタートを切れているのは穂乃果のおかげだ。さすが二ノ宮穂乃果だと思ったよ」
憧れの上司からのこれ以上ないくらいの労いに穂乃果の胸はじーんとなる。一方で、その呼び方には少々の違和感を覚えた。
「でもあの、副社長、名前……」
恐る恐る指摘すると、なにが悪いんだというように、拓巳が眉を上げた。
「プライベートな時間なんだからいいだろう。それにきちんと話をするまではまだ俺たちは恋人同士だ」
"まだ"の言葉に穂乃果の胸がちくりと痛む。もう今すぐにでも始まる別れ話。それが終わったらふたりの関係は元に戻る。呼び方は元に戻るのだ。それでいいはずなのに、これが名前を呼ばれる最後なのだと思うと寂しい思いで胸がいっぱいになった。
「穂乃果」
拓巳が眉を寄せて、真剣な眼差して穂乃果を見る。穂乃果はこくりと喉を鳴らした。いよいよ、別れ話に入るのだ。
でも。
「俺は、別れるつもりはないからな」
予想とはまったく逆の言葉を口にして拓巳はジッと穂乃果を見つめる。
穂乃果は目を見開いて、息が止まりそうになってしまう。
「穂乃果、君が好きだ。ずっと好きだったんだ。君が入社したての頃、とにかくガッツのある子だなと思ったよ。すぐに君がそばにいると驚くほど仕事がやりやすいことに気が付いて、相性がいい子も珍しいと思ったんだ。でもすぐにそれだけじゃないと思い当たった。いつのまにか好きになっていた」
そこまで言って言葉を切り、拓巳は少し遠い目をした。
「だが俺からは言えなかった。君にとって俺は直属の上司だ。俺から言うのはフェアじゃない。それに、一生懸命仕事に打ち込む穂乃果の邪魔になるようなことは絶対にしたくなかった」
「副社長……」
心をギュッと強い力で掴まれたような気分だった。
穂乃果も彼にまったく同じ想いを抱いていたからだ。
はじめはすごく仕事ができる人だなと感心して、しばらくすると彼の近くにいると自分が成長できることに気が付いた。そして夢中で背中を追いかけているうちにいつのまにか好きになっていた。
でも不用意に気持ちを打ち明けて、業務に邁進する彼の邪魔にはなりなくはないと思っていた。
「言うつもりはなかったから、君から告白を受けた時は本当に嬉しかった。こうなったからにはもう簡単に君を手放すつもりはない。先週も言った通り俺は覚悟を持って君を抱いたんだ。一生のパートナーになるつもりだった。……君は違うのか?」
誠実で率直な彼らしい言葉と、その問いかけに、穂乃果は答えられなかった。穂乃果だって一大決心をして告白し、清水の舞台から飛び降りるような気持ちで彼に抱かれた。決して軽い気持ちなんかじゃない。
でもそれを伝えたら、穂乃果が彼を拒否する理由も言わなくてはいけなくなる。
実は自分はライバル企業の社長令嬢だということを彼に打ち明ける勇気はまだ持てない。
黙り込む穂乃果に、拓巳がためらいながら口を開いた。
「俺が獅子王社長の息子だと黙っていたことに、君が怒りを覚える気持ちは理解できる。複雑な事情があったとはいえ俺は君だけじゃなく、他の部下たちも騙していた」
どうやら彼は、穂乃果の拒否の理由を別の角度から捉えているようだ。眉を寄せて少し申し訳なさそうに詳しい事情を話し始めた。
「言い訳にしかならないが俺が高杉の名で働いていたのは、獅子王一族から後継だと認めてもらう条件だったんだ。父は長男だから俺はいわゆる本家の跡取りになるわけだが、両親の離婚で一度獅子王家を出ているからな。御曹司としてではなく一般の社員として入社して誰もが認める実力をつけることができたら、その時は正式な後継なれるという約束だった。目的を達成するまでは誰にも本当のことを言えなかったんだ。他の社員に対しても申し訳ないことをしたと思っている。もしそれを許せないなら……」
「違います! 私、それは全然気にしていません」
まるで悪いことをしたかのように言う彼を、穂乃果は声をあげて遮った。
確かに穂乃果が拓巳との付き合いを断ったのは彼が御曹司だと知ったからだ。でもそれはあくまでも彼が御曹司だったからであって黙っていたことを怒っているわけではない。
謝られる必要はどこにもない。
「獅子王不動産の後継は、副社長が社長の息子だと知る前から皆副社長がなればいいななんて噂していたんですよ。副社長が獅子王社長の息子だと知って驚いたけど、安心したくらいです。もちろん私も皆と同じ気持ちです」
言葉に力を込めて穂乃果は言う。彼の実力と情熱は会社にとって必要不可欠だということは彼が部長時代から皆知っている。その彼がリーダーになってくれるなら経緯なんてどうでもいい。
穂乃果の言葉に拓巳が「ありがとう」と息を吐く。でもすぐに訝しむように眉を寄せた。
「だがそれなら、俺の出生を知った途端に穂乃果が態度を変えた理由がわからない」
その言葉に穂乃果はどきりとして目を逸らす。黙っていたことを気にしていないなら、他になにがあるんだと言われるのはもっともだ。
またもや黙り込む穂乃果に、拓巳がもう一度ため息をついた。
——そして。
「穂乃果」
温かい大きな手が、穂乃果の頬を優しく包んだ。
「君が、あの告白は間違いだった。俺ほど真剣な気持ちではなかったんだと言うのなら、俺は潔く諦めよう。無理強いはしない」
射抜くような彼の視線が穂乃果を刺した。"そうだった"と頷けば彼は納得して穂乃果と別れてくれる。穂乃果の望む通りになるというのに、どうしても答えることができなかった。
「……なにか事情がありそうだな」
拓巳が難しい表情で呟いた。
彼はたくさんいる部下のひとりひとりを常によく見ていた。体調が悪いのに無理をして出勤した社員、手持ちの仕事がいっぱいで余裕がなくなっている社員に一番先に気が付くのはいつも彼だった。
彼との別れの理由について穂乃果がなにかを隠していることくらいはお見通しなのだろう。
「俺には言えないことなのか。穂乃果」
真っ直ぐな彼の視線がつらかった。穂乃果が出会った中で、彼は一番頼りになる信頼できる人物だ。新卒として入社してから今まで穂乃果がぶち当たったたくさんの困難は彼がいなければ乗り越えられなかっただろう。
でもこればかりはどうしても言うわけにはいかなかった。
「……すみません」
「それは、なにに対するすみませんなんだ。理由を言えないことか? それとも俺と付き合えないことか」
「……両方です」
絞り出すように声を出して穂乃果は目を伏せる。
拓巳が深いため息をついた。
そして——。
「わかった」
彼の口から出た了承の言葉に穂乃果の胸がズキンと痛む。
いったいどこまで自分身勝手なのだろうと穂乃果は思う。自分が望んだことなのに、こんなにも傷ついている。
これで本当に穂乃果の初恋は終わったのだ。穂乃果の視界がじわりと滲んだ、その時。
唐突に腕を引かれて、穂乃果は彼に引き寄せられる。腰に腕を回されてあっというまに彼の腕の中に収まった。
「つっ……!」
彼の香りに包まれて、穂乃果の背中が甘く痺れる。至近距離から見つめる彼の視線がどこか不機嫌な色を浮かべている。
拓巳が低い声を出した。
「じゃあ言えよ、穂乃果。俺のことは好きじゃない、別れようって。はっきりと自分の口で」
まるで挑発するように彼は言う。
でも穂乃果は言えなかった。
彼を好きだという気持ちは本物で、別れなくてはならないならせめてそれだけは大切にしたかったから。
「言えよ、穂乃果」
ゆっくりと近づく唇を穂乃果は焦がれるように見つめる。その唇に触れられば自分の身体になにが起こるかということを穂乃果はもう知っている。
互いの息遣いを感じる距離まで近づいて、拓巳が最後通告を口にする。
「……言えるまでは、お前は俺のものだ」
「っ……!」
唇が重なったその刹那、穂乃果の頭がぴりりと痺れて、あっというまにわけのわからない世界へ飛ばされる。
逞しい腕が穂乃果を甘く縛り付けて、わずかに残っていた退路を断つ。
「穂乃果、俺のものだ」
耳元で繰り返される言葉に抗うことができなくて、穂乃果はまた彼の手に落ちていった。