これから先、素直になれない事も多いけど
「俺ら結婚しよーぜ」
 そう言われた。
 紫煙のなかに缶ビールのアルコールが微かに香る、真夏のむし暑い夜のベランダで。お互い、ほとんど下着姿に近い薄着のままスルメイカをつまんでいたところ。
 プロポーズ、というにはムードの欠片もない。
「マジでないんだけど。今それ言う?」
「なんだよ、文句あんの?」
「ありまくりなんだけど?プロポーズっていうのはもっと、ちゃんとしたところでやるもんでしょ。ありえないわ」
「もっと喜んでくれたっていいだろ」
 ビールを片手に言われても。
 本当、こいつのガサツというか、なんというか。無神経すぎるところにはイライラする。
 わざと聞こえるようにため息をついた。私の気持ちを具現化したように、タバコの煙が立ち込めた。
「ていうか、プロポーズするのに指輪も無いの?」
「どうせお前、つけないだろ」
「決めつけないでよ」
「……誕生日にあげたネックレス、一度もつけてねーじゃん」
「それは……」
 今度は彼が大きくため息をついた。
「お前みたいなやつに指輪なんか勿体ないね」
「は?なにそれ、どういう意味?!」
「かわいげのないブスに指輪なんか似合わねーって言ってんだよ!」
「はあ?!それでも彼氏なわけ?サイテー!」
「お前に言われたくないね!」
 とうとう本格的な喧嘩が勃発してしまった。
「だいたい、もっと早くプロポーズしなさいよ!私たちもう30歳になるんだよ?若いうちにウェディングドレス着たかったのに!」
「しょうがないだろ、決心がつかなかったんだよ!」
「散々待たせといて、こんなお粗末なプロポーズなの?信じられない!」
「あー!もう、うるせぇな!指輪だムードだって、お前は文句が多いんだよ!そういうワガママなところ昔から変わんねぇな!」
「アンタだってガキみたいなところ変わってないじゃん!」
 近所迷惑なのも忘れて、私たちは大声で罵りあう。いつもこうだ。ちょっとした事ですぐに諍いになる。こんな疲れることしたくないのに。
 悪口が出そうになる口をつぐんで、深呼吸をした。心の中で六秒数える。そうすると怒りが鎮まるとネットで知った。
 一、二、三……
 心を落ち着けていると、彼のため息が耳に入ってくる。
「……俺、なんで”こんなの”と付き合ったんだろ」
 その言葉を聞いて、冷静さを取り戻しつつあった心が再燃した。胸の奥底がぐつぐつと煮えたぎるように熱くなる。
「なにそれ……どういう意味よ、それ!」
 カッとなった私はビールの空き缶を彼にぶん投げた。頭に当たったそれは、カコンとマヌケな音を立てる。
「なにすんだよ!」
 今度は彼がスルメイカの乗っていた皿を投げつける。プラスチック製の皿だからそこまで痛くはないけど、腹は立つ。自分に投げられた皿をつかみ、思いきり頭をひっぱたいてやった。ついでに丸めたタバコの箱も投げつける。
 チッと舌打ちが聞こえ、今度は押し倒された。立ち上がろうとした私に、彼は自分の缶ビールをひっくり返す。ほとんど飲まれていない350㎖が、狭い口からドバドバと注がれ私の髪や服を濡らした。
「なにすんのよ、このバカ!」
「先にやったのそっちだろうが!」
「あんたが「なんで”こんなの”と付き合ったんだろ」とか言うからでしょ!」
「事実だろーが!わがままだしすぐ怒るし、口うるさいし、かわいげがないし。プロポーズしてもケチつけるし。ホント、こんなのと付き合わなきゃ良かったよ。十三年間無駄にしたわ」
「なにそれ……」
 「サイテー」言おうとしたけど、無理だった。言葉より先に涙が出てきてしまった。喧嘩で泣くのなんて初めてだ。目の前の彼も、ギョッとしてる。
 わかってる。自分が悪いことも、わがままだってことも、少しも可愛くないことも、わかってる。でも、そんなことは言わないでほしかった。
「なんで泣くんだよ……」
 彼はダルそうにため息をついた。
 その時、突然ピンポーンとチャイムが鳴った。ドンドンと荒いノックも聞える。
 急いでドアを開けると、いつものようにお隣のおばさんが不機嫌な顔で立っていた。大谷さんは私たちを見て、珍しくびっくりした顔をしていた。たぶん、私たちがお互いにボロボロで、私が目を赤く腫らしているからだろう。
 それでも「こんばんは」と抑揚のない挨拶をされた。そして、いつもの決まり文句、
「うるさいんですけど?」
「ごめんなさい……」
「すんません……」
 大谷さんにはいつも迷惑をかけている。壁の薄いアパートは喧嘩の声がよく聞こえるらしく、私たちが揉める度に訪問され、苦情を入れられるのだ。
「……美雪さん、下着が透けてるわ。ショーツも見えてる」
「あっ……すみません……」
 さっきかけられたビールのせいだ。翔太のバカ。
 胸部を隠し、キャミソールの裾を引っぱってショーツを隠した。
「それにしても、毎度毎度、迷惑をかけてくれるわね」
「ほんと、すんません」
「私”は”気をつけてはいるのですが」
「どういう意味だよ、それ」
「え?なに?私なにか言った?」
「嫌味なやつ……」
 また喧嘩を始めようとする私たちを、大谷さんの咳払いが遮った。私たちは口をつぐむ。
「別にね、カップルの部屋がうるさいのは普通よ。ここのアパートの壁は特に薄いし。それにほら、カップルって夜の活動がお盛んでしょう?まぁ、あなた達は別のがお盛んなようだけど」
 チクチクと嫌味が刺さる。
「あなた達、毎日のように喧嘩してるわよね。今日は特に激しかったし、あなた達相性が悪いんじゃないの?」
 それは、前々から思っていた。
 すぐに言い争いになって、毎日疲れてしまう。私たちに甘い期間はあっただろうか。
「あなた達別れた方がいいんじゃない?そっちの方がお互いにいいでしょう。正直、私も迷惑していたし」
「それは……」
「すんません。ムリっす」
 え……?
 真っ先に否定したのは、翔太だった。
 思わず見上げる。真剣な顔で大谷さんと向き合っていた。
 呆気にとられていると肩を抱かれる。
「毎日うるさくして すんません。でも、別れるのはムリっす。こんなんだけど、愛してるんで」
「ちょっと、アンタ何言って……!」
 今度はとつぜんキスをされた。唇をしっかりとふさぐようなキス。
 キスなんていつぶりだろう。恋心なんて
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