青時雨

「ごめんなさい、純さん。あなたを巻き込んでしまって」

 悠介さんが、ぽつりと言った。

「妻は、心を病んでいます。赦してやってください」

「奥様は、いつから……」

「結婚して数年は、聡明で優しい妻でした。でも僕が仕事や付き合いで何日も自宅に戻らないでいるうちに、少しづつ心を蝕まれていったようで……」

「……」

「妻は地方の出身で、夫婦がいつも一つ屋根の下で、肩を寄せ合って暮らすような毎日を夢見ていた。彼女のそんな純朴さに惹かれて、結婚したのですが」

 悠介さんは、唇を噛んだ。

「アパレル業界は虚飾の城です。皆が綺羅びやかで浮ついた雰囲気を(まと)って、本心を隠して暮らしている。妻はそんな雰囲気が、耐えられなかったんです」 

 悠介さんによると、海外の工場視察から戻った悠介さんに、奥様が突然「浮気者!」と叫びながら包丁で斬りかかったのだそうだ。

「大した怪我ではありませんでしたが、ショックでした。それ以来、妻は急に興奮して、僕に襲いかかるようになって」 

「……」

「いつの間にか僕は、茉優(まゆ)にとって繊細な彼女の心を苛む、魔物のような存在になっていたんでしょう」

 悠介さんは奥様を名前で呼んだことに、気付いていないようだった。

「僕は茉優の優しさに甘えて、派手に遊んでいました。業界の風雲児の肩書に惹かれて寄って来る薄っぺらな女たちを、安物のワインを飲み干すように、毎晩抱いていました。茉優の怒りは、当然なんです」

「……」

「茉優はその怒りを、懸命に自分の中に抑え込もうとして、遂に自分の心を砕いてしまった」

 悠介さんは過去を悔いるように、固く目を閉じた。

「全て、僕の責任なんです」

 そう言って深く息をつく悠介さんを、私は涙を浮かべながら、見詰めていた。

 ただ、悲しかった。 

 私が奥様を苦しめることになってしまったことや、私が奥様に襲われたことよりも、悠介さんがまだ、奥様を見捨てられずにいることが、心を切り刻まれるように、悲しかった。
 
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