青時雨
南青山三丁目交差点を越えて、悠介さんの会社があるオフィスビルの前まで来た。
そこで足が、竦んでしまった。
雨に濡れるガラス張りのオフィスビルを、私は通りを隔てた反対側の歩道から見上げていた。
まだ昼前だというのに雲が低く垂れ込めて、辺りは日暮れ刻のように暗い。
ビルのフロアの灯りが、薄闇を払うように輝いていた。
オフィスの中では多くの人が働いている。悠介さんのフロアにも、明かりが煌々と灯っていた。
あそこに、悠介さんがいる。
降り続く雨の中、歩行者が立ち尽くす私に驚いて、舌打ちしながら避けるように歩いていく。
あの日、奥様の病気を話す悠介さんは、疲れ果てた顔をしていた。
きっとあれが、悠介さんの本当の顔なんだろう。
愛する妻の変貌に戸惑い、自分の犯した罪の深さを悔やみ、そして私と身体を交わした、悠介さんの──。
傘を打つ雨音の中で、急に彼の声が耳元に甦った。
『僕は、あなたのとまり木になりましたか?』
そのとまり木を誰より求めていたのは、悠介さん自身ではなかったか。
派手な猟色も、妻の心を喪ってしまった彼の、悲しい代償行為だったのかも知れない。
悠介さんは、傷付いた私のとまり木だった。
私も悠介さんの、かりそめのとまり木に過ぎなかったのかもしれない。
傷を負った私たちの間に、愛はあったのだろうか──。
傘の下から、悠介さんのオフィスビルを見上げた。
あのガラス窓の向こうに、悠介さんがいる。
でも、声は届かない。
想いも、届かない。
私は下を向くと、踵を返して青山霊園の方へ歩いていった。