青時雨

 波音とヨットの揺れに、目を覚ました。
 いつの間にか、ヨットは錨を上げて走り出していたらしい。
 キャビンの窓から、夕日に染まる海が見えた。

 伝うようにタラップを登って扉を開けると、悠介さんは舵輪の前に座って、タバコを(くわ)えていた。

「ごめんなさい、起こしてしまいましたね」

 悠介さんは笑うと、吸い殻入れにタバコをねじ込んで、蓋をした。

 海は少し風が出ていて、陸に向かう風を掴んだヨットは、波を切り裂いて飛ぶように走っていた。
 舳先で砕けた波が、風に乗って飛沫になって、後方へ流れていく。

 大島はもう、随分と小さくなっていた。

「このまま走れば、日暮れまでに伊東に戻れます」

 私は途方に暮れたように、全身で夕日を浴びる悠介さんを見詰めた。

「私は……」

 このままこのヨットで、あなたと一夜を過ごしたかった。
 とても口にできない言葉の代わりに、私はじっと彼を見詰めて、そして彼の横に腰掛けた。

「私って、そんなに魅力ないですか?」

「急にどうなさったんです、純さん」 

「悠介さんは、意地悪な人ですね」
 
 気丈に言ったつもりなのに、語尾が微かに涙を含んで、揺れた。

「女は全く相手にされないより、その気にさせられた後に放っておかれる方が、ずっと傷付くんですよ」

「……」

 不意に、左の肩に彼の分厚い手のひらを感じた。
 次の瞬間、私は悠介さんの逞しい腕に、後ろから抱き締められていた。

「すみません、純さん」

 彼の声が、私の耳元で聞こえた。

「少し怖気づいてしまったんです。だってあなたが、こんなにも素敵だから」

 甘い囁きが、胸を熱くする。
 偽りでもいい。せめて今夜だけでも、私を強く抱き締めてくれるなら……。

「悠介さん、明日の朝まででいいんです」

 私は、彼の腕に自分の手を重ねながら、言った。

「私を、愛してくれますか? 今夜だけは、私だけを」

 振り向くと、彼の優しい瞳が、目の前にあった。

 どちらからともなく、自然に顔を近付けて、私たちは唇を重ねた。
 夕陽に紅く、染まりながら。
 
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